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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2012年1月29日 
「幼な子イエスの旅」加藤豊子牧師
マタイによる福音書2章13−23節



 東方の学者たちが星に導かれ、幼子イエスを礼拝し、贈り物をささげたという出来事の後に記されているのは、クリスマスの喜びとは程遠い、暗く、嘆き悲しみに満ちたお話です。 ヘロデ王に命を狙われていることがわかり、幼子イエスは家族と共にエジプトへ逃れます。怒ったヘロデ王がベツレヘム周辺の2歳以下の男子を一人残らず殺すという恐ろしい事件が起こり、母親たちの嘆き悲しむ声が響きわたります。やがてヘロデ王の死が知らされ、ヨセフは幼子イエスとマリアを連れてイスラエルに戻り、ナザレという町に住んだと記されています。「主が預言者たちを通して言われていたことが実現するためであった」という言葉が繰り返し語られていますが、この暗く、悲しい幼子イエスの旅の中にも、救い主がどのようなお方として誕生されたのかが示されていると思わされます。



 エジプト…それは奴隷となっていたイスラエルの民が救い出された出エジプトの出来事を思い起こさせます。さらにそれは、罪の奴隷となって身動きのとれない、苦しみの中にある私たちの姿をもあらわしているのではないでしょうか。幼子イエスがエジプトに逃れ、そこに滞在されたということは、罪にまみれた私たちの只中に救い主が来てくださった事を示しているようです。



 また幼子イエスが住んだナザレという町は、軽蔑の意味を持って語られてきた地名でもあります。「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と言われるような町です。「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。…」(イザヤ53:3)主イエスは華々しく明るいスポットライトを浴びるような、立派な権威ある王として歩まれませんでした。一番低い所に身を置き、弱い者傷ついた者に寄り添って、僕となって仕える道を歩んでくださった事を心にとめたいと思います。
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 2012年1月15日 
「共におられる神」加藤豊子牧師
マタイによる福音書1章18−24節



 「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)

 婚約期間中に身ごもったマリアを、ひそかに離縁しようと考えていたヨセフに、天使は夢の中でこう語ります。「聖霊によって宿った…」この言葉は、そんなことは信じられない、生物学上不可能なことだ…と多くの人々をつまずかせてきた言葉です。



 1章の系図、そこには多くの人名が書き連ねられています。「アブラハムはイサクをもうけ…」と、結婚して子どもが生まれてという人と人との営みが繰り返されている記録です。しかしまたその中には、憎しみ、妬み、殺意といった人間の心の様々な悪意がうごめき、神を忘れて自分勝手に生きようとする人間の姿が隠されています。「聖霊によって」マリアが身ごもり救い主イエスが誕生したということは、そのような繰り返されてきた人間の罪の歴史の中に神が直接介入され、救いの道が開かれたということを示しているのです。

 私たちが神に背を向け、それを当り前のようにして生きて行く時、その行き着く先は、たった一人で死を迎えなければならないという現実ではないでしょうか。「死」というのは、誰一人例外なく、全く一人ぼっちで向き合わなければならないものです。



 「『その名はインマヌエルと呼ばれる』この名は『神は我々と共におられる』という意味である。」(23節) 救い主イエスの誕生…それは共にいてくださるお方として主イエスが誕生されたことを示しています。どんな時も、たとえ死の陰の谷を行く時も私たちは一人ぼっちにならなくて良いのです。私たちの罪を赦すために十字架で死んでくださり、死に打ち勝ってよみがえってくださったお方が共におられることを感謝したいと思います。
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 2012年1月1日 
「旅路」加藤誠牧師
創世記47章1−11節



 「わたしの旅路の年月は130年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く・・・」(47:9)

 人は年を取れば取るほど住み慣れた土地から離れがたくなるのではないだろうか?130歳になったヤコブがエジプトに住む決心をしたのは並大抵のことではない。

 45章の最後には「死ぬ前に、どうしても会いたい」との父ヤコブの切なる思いが記されている。また、これまでの流れからしても、ヤコブの一族66名が生き延びるためには、エジプトに行かなくてはならないことは明白である。



 ヤコブがヨセフに会いたい一心であることは聖書が記すが、同時に46章の最初に神のヤコブへの語りかけが記されている。カナンの地、それは神の約束の土地である。その土地を離れることに、ヤコブが苦しまなかったはずはない。しかし、エジプトにこの時行くことこそが神の御心であることが示される。



 上記の言葉はヤコブの本心である。いかに息子に会いたいにしても、老骨に鞭打って旅したに違いない。ヤコブの物語も、彼の苦労の多さを伝える。(自分が蒔いた種の面もあるが)そして今やヨセフの功績があるとは言え、ファラオの好意にすがっていきてゆくしかない身の上である。

 けれども聖書は、ヤコブが上記の言葉を言う前に、「ファラオに祝福の言葉を述べた」ことを伝える。ファラオがいかに神々の化身と思われていても、ヤコブの神の祝福は持っていない。「別れの挨拶」とその後に出てくるが、これも言い返せば「祝福」である。

 神を信じても苦労は多い。それがヤコブの生涯の結論とも言える。しかし同時に、彼はファラオすら祝福する存在であったことも事実である。そしてその生涯の終りの時も神の御手に委ねている。
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