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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2012年2月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2012年2月26日 
「天の国は近づいた」加藤誠牧師
マタイによる福音書4章12−17節



 17節に於いて私たちは主イエスの宣教の言葉を聞く。「悔い改めよ。天の国は近づいた」である。しかし、私たちがこの言葉をマタイ福音書に於いて聞くのはこれが二度目である。最初の言葉は3章2節であり、語ったのは洗礼者ヨハネである。4章12節に「ヨハネが捕えられ」とあるが、この宣教の言葉の故にヨハネは捕えられ、やがて命を奪われると理解しても良いであろう。

 そしてこのヨハネ捕縛の知らせは主イエスをしてガリラヤに退却させることとなる。「退く」という言葉は「逃げ去る」と訳すことも出来よう。つまり、主イエスは意気揚々とカファルナウムに来て住んだのではない。



 この出来事の前にマタイは40日の断食の後の悪魔の誘惑の記事を記す。勿論、誘惑に勝利された後、どれほどの期間があってナザレをお捨てになったのかは分からない。しかし、40日の断食が主イエスの肉体に与えたダメージは大きかったであろう。ヨハネの捕縛が主イエスの心に与えたダメージも大きかったのではないだろうか。



 ゼブルン、ナフタリ、ガリラヤ、その地に住む者たちを聖書は「暗闇」に住む民と言う。歴史を見れば、BC8世紀にアッシリアによって滅ぼされて以来、諸外国の支配のもとに置かれ続けた地である。しかし、それが「暗闇」「死の陰」の地の所以であろうか?マタイが引用したイザヤ書を見れば、いかに彼らが神を捨てたかが記されている。神なき場所、それが「暗闇」であろう。そこに主イエスは住まわれた。疲れた者として。誤解を恐れず言えば退却した者として。

 しかし、マタイは告げる。「光が射し込んだ」のだと。暗黒にも関わらず光を見るのだと。彼らはどのような光を主イエスに見たのだろうか?そして、ここから主イエスの宣教が始まる。「悔い改めよ。天の国は近づいた」との御言葉と共に。
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 2012年2月19日 
「誘惑」加藤豊子牧師
マタイによる福音書4章1−11節



 私たちが何に対して誘惑を感じるか…それは一人一人異なるものです。日々、様々な誘惑にさらされている私たちとは異なり、神の子イエス・キリストは誘惑等とは無縁なお方なのでは、と思います。しかし、このところで主イエスは悪魔からの執拗な誘惑にさらされています。ガリラヤで、本格的な伝道活動を始められる直前の出来事であったこと、「『霊』に導かれて荒れ野に行かれた。」(1節)と記されていることから、この誘惑は主イエスがメシア、救い主として歩みだされるための大切な準備の時であったと考えられます。



 最も取り上げられることの多い聖句は「人はパンだけで生きるものではない…」という言葉でしょう。しかし、この3つすべての誘惑が、主イエスにとって大変大きな意味を持つものでありました。それは、主イエスがこれから、どのようなメシアとして歩まれるのかを明確にするものであったからです。

 石をパンに変えて、飢えの問題を解決し、人々の物質的な必要に応える、または高い所から軽々と飛び降り、皆が驚くような奇跡を次々と示す、或いは権力を握り、人を思うように支配する、そのようなメシアとして歩むことを、主イエスは退けられました。



 主イエスが歩まれたのは「見るべき面影はなく輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ…」(イザヤ53章)という、僕として十字架に向かわれる道でした。

 悪魔は私たちに、何とかして神さまとの関係を遠ざけようと働きかけてきます。様々な誘惑にさらされる中で、歩むべき道から外れ、何が大切なのかがわからなくなってしまうような私たちです。しかし主イエスが、聖書の言葉によってご自分の使命に堅く立つことが出来たように、聖書の言葉はいつも私たちに、自分の立つべき場所を示し、歩むべき道を示してくれるものであることを覚えたいと思います。
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 2012年2月12日 
「主イエスの洗礼」加藤豊子牧師
マタイによる福音書3章13−17節



 「悔い改めて洗礼を受けよ」とバプテスマのヨハネは人々に呼びかけていました。当時、洗礼は異邦人がユダヤ教に入会するための手続きの一つとして行われていたものです。しかし、ヨハネが呼びかけていた相手は異邦人ではなく、ユダヤ人に対してでした。このヨハネの運動はユダヤ人の信仰を目覚めさせるものだったのです。ヨハネの呼びかけに多くのユダヤ人たちが心を刺され、悔い改めて洗礼を受けようと集まってきました。

 そのヨハネのもとに、主イエスが洗礼を受けようとやって来られたのです。ヨハネは主イエスに洗礼を授けることを辞退しようとします。おそらくこの時、ヨハネは主イエスがメシアであることを正しく理解していたわけではないと思われます。しかし、目の前にいるお方が悔い改めの洗礼を受ける必要のないお方であることがわかったのではないでしょうか。



 主イエスは答えます。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」(15節)「正しいこと」とは御心に適うこと、神の求められることを意味します。主イエスは罪を悔い改める必要のない、汚れのない神の子であり、洗礼を受ける必要が全くないお方だったのです。しかし、そのお方が洗礼を受けられたということは、主イエスが罪にまみれた私たち人間と同じところに立ってくださった、下りて来てくださった事を意味します。そしてそれこそ、神の御心に適う、神の求められたことだったのです。私たちのところに下りて来てくださった、罪のない神の子だけが、私たちの罪の問題を解決することの出来るお方なのです.

 「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された…」(ヨハネ3:16)罪人と同じところに立って洗礼を受けてくださった主イエスの姿の中に、神様の私たちへの愛があらわされていることを覚えたいと思います。
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