←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2012年3月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2012年3月25日 
「イエスの弟子になろう」齋藤朗子牧師
マルコによる福音書10章35−45節



 人々の僕となって、人々に仕える。それだけでなく、自分の命を人々にささげる。それなのにろくに感謝もされず、むしろ最後は人々に笑われ、ののしられ、犯罪者扱いされ、下着まで取り上げられて、十字架の上で死んでいく。それが私たちの主イエスであった。

 ヤコブとヨハネはここで、自分と兄弟を、あなたの弟子の筆頭にしてくださいと願った。イエス様が「お前たちは、自分が何を願っているのか分かっていない」というのに、「いいえ、わかってます、あなたに従います」と大見得まで切った。

 そんな二人も含めて、イエス様が弟子たちに求めたことは、イエス様の一番弟子として、イエス様の両脇でふんぞりかえっていることではなくて、人の僕となって、人々に仕えて、自分の命までも献げること。



 私たちは礼拝の終わりに祝祷を受け、アーメンと答えて教会から帰るが、その時私たちは、主イエスの弟子として世間に出ていく。教会から出れば、もしも主イエスの弟子でないならば味あわないような苦労がある。

 それでも主イエス様が私たちに求めていらっしゃることは、キリストの弟子として生きて行くこと。イエス様が私たちに送って下さると約束された聖霊を受けて、私たちは日ごと礼拝ごとに御言葉と聖霊の力によって新しい人に変えていただき、だんだんとキリストの弟子として変えられてゆく。

 聖書でそう約束しているから安心してください。「私なんか」と思ってはいけない。私たちはなお罪人であるに変わりなく、過ちや失敗もあるが、私たちもヨハネのように、なんのてらいもなく自分のことを「主に愛された弟子」と思ってよいし、誰もが主イエスの弟子となれるのだ。
目次に戻るページトップ
 2012年3月18日 
「主の教え」加藤誠牧師
マタイによる福音書5章7−12節



 確かにこれは主イエスの教えである。しかし、そのスタイルは説教というよりは宣言の印象を受ける。宣言という言葉が強ければ約束と言い換えても構わない。本来余り解釈は必要ないと思いつつ、思わず立ち止まって考えさせられる個所もある。

 例えば6節に「憐み深い人々は幸いである、その人たちは憐みを受ける」とある。憐み深くありたいと私は思う。しかしその背景にはお返しに人からも憐み深く取り扱われたい、という思いが隠れている。憐み深い人たちを誰が憐れむのか?神である。憐み深くありたい人たちは人からの憐みではなく、神からの憐みを期待するべきである。



 10節に「義のために迫害される人々は、幸いである」とある。私の周囲で見かけるのは各自の義さのぶつかり合いである。日常を見ると人の「義」とは迫害されるものではなく、むしろ人を迫害するものではないかと思わされることが多い。11節では「わたしのためにののしられ、迫害され」とある。主イエスのために迫害を受ける。それが10節で言われている「義のために」ではないだろうか。更に、迫害を受ける時「喜びなさい。大いに喜びなさい」と主イエスが言われるが、自分のこととして考えると強烈である。しかしこれは宣言なのである。迫害の中に喜びを見出すからこそ「喜びなさい」と主イエスは勧めるのであろう。



 私の最初の任地は和歌山であった。主任牧師は第二次世界大戦中に検挙された経験を持っていた。死を覚悟せねばならない事であり、事実殉教した牧師もいた。何が彼をして最後まで耐えさせたのだろうと、一見平和な今思う。「喜ぶ力」というものがあるのではないだろうか?明日が見えない状況だからこそ「喜ぶ力」が必要である。そしてそれは主イエスのもとにある。
目次に戻るページトップ
 2012年3月11日 
「幸いはどこに」加藤豊子牧師
マタイによる福音書5章1−6節



 「心の貧しい人々は幸いである…」という主イエスの教えは「八福の教え」とも呼ばれています。忠実に訳すならば、「幸いなるかな…」という呼びかけの言葉で始まるこの教えは、優しい、美しい言葉の響きを感じさせる文ですが、実に理解すのが難しいと思わされる内容です。何故ならば、相反すると思われる二つの言葉(貧しさと幸い・悲しみと幸い)が、結びつけられて語られているからです。

 「幸いなるかな、悲しむ者、その人は慰められん」(文語訳)3.11の震災から一年を迎えた私たちにとって、大変複雑な思いにさせられるみ言葉が今朝与えられています。



 先週思いがけず、夫と共に釜石の仮設住宅を訪れる機会が与えられました。長年慣れ親しんできた生活のすべてを流されてしまった方々の戸惑いと悲しみ、夜中に目覚めては様々なことを思い起し、また先のことを不安に思いつつ朝を迎える日々、集会所での集まりに足を運ぶことのできない多くの方々がおられる現状…そこにはどんなに寄り添いたいと思っても、受け止めきれない悲しみ、痛みがあります。



 「幸いなるかな悲しむ者、その人は慰められん」そう語られたのは、十字架に架かってくださった主イエス・キリストです。イザヤ書53章には「彼は悲しみの人で、病を知っていた…まことに彼は我々の病を負い、我々の悲しみを担った」(口語訳)とあります。主イエスはすべての痛み、苦しみ、悲しみをその身に負って十字架に架かってくださいました。私たちの悲しみや絶望を知っていてくださり、受け止めて下さるお方であります。私たちはそこに、慰めを見出すことができるのではないでしょうか。

 あらゆる悲しみ、苦しみを受け止めて下さる主イエスの慰めを祈り求めつつ、「私たちを悲しみに寄り添う者へと導いてください。」と心より願います。
目次に戻るページトップ