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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2012年4月29日 
「新しい教え」加藤豊子牧師
マタイによる福音書5章38−48節



 「わたしが来たのは律法を完成するため」と主イエスは言われました。律法を完成するとは、律法の真実の意味を明らかにする、と言う意味です。主イエスは旧約の律法を引用しながら「しかし、わたしは言っておく…」と新しい教えを指し示しています。



 ここで先ず引用されているのは「目には目を、歯には歯を」というハムラビ法典にもある、有名な古い戒めです。復讐することを認めている、煽っているような言葉に聞こえますが、実は際限のない、繰り返される復讐の連鎖を断ち切るために定められた戒めです。やられたらやり返す、やられた以上にやり返す…という姿は、個人の間で、又国家の間でも繰り返されてきた姿です。そんな私たちに主イエスは「誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬も向けなさい。」やり返さないで左の頬も向けなさいと言われたのです。



 さらに、「誰かが1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。」とあります。この当時、ローマ兵に強いられて荷物を背負わされることがありました。その場合、1ミリオンまでは、義務として歩かなければならないことになっていました。しかし主イエスは、義務である1ミリオンを超えて、さらにもう1ミリオン、相手と共に歩めと言われます。ある人がこのように語っています。「2.000歩(1ミリオンの距離)には自由がない。しかし、2001歩目からは、義務ではなく、自分の自由な意志で、相手への愛故に踏み出す一歩である。」



 当時ユダヤ人の中には、自分たちは選ばれた特別な者であるという意識が強く、「隣人」とは基本的に同胞、同族の仲間を意味していました。律法を守れない人、異邦人等は彼らにとって敵とみなされる存在であり、身内かそうでないかをはっきり線引きして接するような姿がありました。そこに示された新しい教えは「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」というものです。主イエスは口先だけではなく、ご自身が語られたように十字架に向かって歩まれました。罵られても罵り返さず、父よ彼らをお許し下さいととりなしの祈りをささげて下さったのです。御足の跡をたどるようにとの主の招きの声を聞く者でありたいと思います。
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 2012年4月22日 
「美しき灰色の世界」齋藤朗子伝道師
マタイによる福音書13章24−34節



 主イエスは地上での伝道を「天の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」との言葉で始めらました。「毒麦のたとえ」「からし種のたとえ」「パン種のたとえ」によって主イエスが弟子たちに悟らせようとした「天の国」は、目に見える世界や、一般の常識、あたりまえの感覚では理解できないという意味で「隠された」「秘密」です。この秘密は、それを心から聞きたい、知りたい、欲しいと願って、主イエスの言葉に耳を傾ける時に、主が悟らせてくださいます。天の国とは「神の国」「神のご支配」のことです。私たちが住んでいるこの世界は、神が創造し、治めている、神の国です。神はこの世界を創造された時「よくできた」と満足されました。ですから本来的に、この世界も私たちも良いものです。主イエスは、神の作られたこの世界を「麦畑」にたとえました。私たちは、この麦畑に生きる麦です。



 しかし「敵」すなわち悪魔が、私たちの知らない間に、世界に悪を蒔いて行きました。そのため、世界も私たちも、悪の影響を受けるようになりました。悪の存在に気が付いた僕たちは、それを根こそぎ抜き去ろうと主人に申し出ますが、主人(神)は、「毒麦を抜こうとして麦まで一緒に抜いてはいけないから、刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と言いました。この「悪を抜かずにおく」という神様のお考えのうちに、私たちへの深い愛と憐みがあらわれています。神は、悪も罪も持っている私たちを、それでも愛し、自分の世界に受け入れ続けて、育てて下さっているのです。



 神がそのようなお方であるならば、「そのままに」との神の言葉は、性急に物事の善悪を判断する私たちに対する戒めの言葉としても読むことができます。ただ悪を切り捨てるだけでは、愛は育たず、憐みもゆるしも起こりません。しかし、人々が互いに愛しあい、許しあうことが、主イエスの最も大切な教えです。ですから私たちも、互いの悪を排除しあうよりも、良い所を見ながら、愛しあい、許しあいたいものです。



 この世界は白(善)と黒(悪)が混ざりあった灰色の世界です。私たちも灰色の存在です。しかし神は、私たちの考える善悪を超越したお方であり、時に善のために悪すら用いられるお方です。そして、悪魔の業の後始末をする力をもお持ちです。この神に信頼しつつ、忍耐しつつ、世界と私たちが一点のシミもなく美しくされる日を待ち望みましょう。
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 2012年4月15日 
「主イエスと律法」加藤豊子牧師
マタイによる福音書5章17−20節



 律法が、どれほど重要なものなのか。それは、ユダヤ社会に生まれ育ったわけではない私たちにとって、理解しにくいことです。ユダヤ人にとって、律法は神から与えられた掟であり、神を信じて生きて行くということはすなわち、生活の中で律法を実践することを意味します。そして、そのような生き方は親から子へ、次の世代へと家庭、地域社会の中で伝えられ続けてきたのです。



 律法を重んじる人々にとって、当時の主イエスの行動は律法を軽んじ、破壊しているように見えたのではないでしょうか。主イエスは律法学者たちの反対を押し切って、働いていはならないとされていた安息日に病人を癒されました。また当時、交流してはならないとされていた徴税人、罪人と呼ばれる人々と共に食事をし、主イエスの弟子たちは、「あなたたちの先生は、あんな人々と一緒に食事をしている」と批判もされました。



 しかし、主イエスははっきりと言われました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。」(5:17)「完成する」とは真実の意味に於いて示す、行うという意味です。主イエスは自分の生涯を通して、律法の本質を明らかにし、それを実践されたと言えます。後に、律法学者からの問いに答えて、律法の中で一番大切な掟は第一に神を愛することであり、それと同様に大切なのが隣人を自分のように愛することであると語られました。主イエスは、律法の本質を示すこの二つの愛を、その生涯を通して、最後には私たちのために自分の命を捨てて十字架に架かってくださることを通して示してくださったのです。



 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つものとしてくださるように。」(エフェソ3:11)愛することに乏しい私たちも、愛の戒めに生きるようにと主イエスに招かれていることを覚えたいと思います。
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 2012年4月1日 
「地の塩として」加藤誠牧師
マタイによる福音書5章13−16節



 主イエスに従う者は「地の塩」「世の光」である。私たちは自分がどのような存在であるか、自分自身でも分からない時が往々にしてある。私たちが自分自身をどのように評価しようとも、主イエスにあっては「地の塩」「世の光」である。そしてそのように生きることに招かれている。



 「塩」という言葉で聖書からロトの妻を思い浮かべる人もおられよう。ソドムとゴモラの話である。神の裁きの中、いけない、と言われていたにもかかわらず、後ろを振り向いたロトの妻は塩の柱になった。「塩」が登場するのは裁きの時ばかりではない。民数記18章には「塩の契約」という言葉がある。この契約は祭司とレビ人、そしてイスラエルの人々が神と義しい関係で生きるためのものである。私たちが生きる上で塩は欠かせない。同様に、私たちは「塩」としてこの世で神に必要とされている。



 16節には私たちが「地の塩」「世の光」であることの目的が記されている。「人々が・・・あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」と。私たちの光を人々の前で輝かせるようにと、主イエスは言われる。しかしそれは私たちが称賛されるためではない。先週まで学んだ「幸い」の教えに今日の個所は続いている。8番目の「幸い」は主イエスのために迫害される幸いである。

 受難週が始まるこの日、私たちは主イエスこそが真の「地の塩」「世の光」としてこの世に来られたことを覚えたい。民数記の契約は「永遠の塩の契約」と記されている。主イエスは十字架と復活の出来事を通して永遠の救いの契約を打ち立てて下さった。キリスト者はこの契約を信じ生かされている。
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