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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2012年5月27日 
「主の祈り」加藤豊子牧師
マタイによる福音書6章9−13節



 主の祈りは、主イエスが「祈るときにはこのように祈りなさい」とわたしたちに教えてくださった祈りです。この祈りは「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけの言葉で始まります。「天におられる」、その言葉からイメージするのは、わたしたちの手が届かないところ、遥か遠くにおられる存在ではないでしょうか。しかし、その遠さというのは、距離的なものだけではなく、人間の理解を越えた、超越された存在という意味での遠さをも示していると思います。



 そして、その後に「わたしたちの父よ」という言葉が続きます。「父よ」(アッパ)という呼びかけの言葉は、家庭で子どもがテーブル越しに父親に話しかける時に発せられる言葉、日常的な言葉であると言います。この言葉は、大変近い所におられる神を示しています。わたしたちは、テーブル越しに目の前にいる父親に話しかけるように、天におられる神に祈ることができるのです。「天におられるわたしたちの父よ」それは、遠くて近いお方である神への呼びかけの言葉です。



 主の祈りの前半は「御名が崇められますように。御国が来ますように。御心がおこなわれますように。」とあるように、神のために、神の栄光を求める祈りが続いてます。そこに、わたしのために、という人の思い、願いは一切ありません。このことは、わたしたち一人一人が、神の栄光をあらわすものとして造られたことを示しているのではないでしょうか。そのことを忘れてしまうと、わたしたちの祈りは次から次へと自分の願いを事だけを求めるものになってしまいます。わたしたちは「あれは御利益宗教だ」といって他者を批判することがありますが、祈りが自分の願いが叶い、思いが満たされることのみに偏るならば、それは御利益宗教と似たものと言われてしまうかもしれません。



 主イエスはゲッセマネの園で「できるならばこの杯を取りのけてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」と祈られました。神の御心が行われることを、先ず心から祈るものでありたいと願います。
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 2012年5月6日 
「天の父の報い」加藤豊子牧師
マタイによる福音書6章1−4節



 ここで取り上げられている「施し」「祈り」「断食」という三つの「善行」は、ユダヤの人々の日常生活の中で大切にされていた善い行いのことです。主イエスはこの善い行いについてそれぞれに、「偽善者のようであってはならない」「人に見てもらおうとしてはならない」と繰り返し語っておられます。「施し」は貧しい人への憐みを意味する言葉です。「町の中にいる寄留者、孤児、寡婦が、それを食べて満ち足りることができるようにしなさい」(申命記14:28−)と旧約聖書の中に記されているように、弱い立場にある人々を助けることは、昔から当然のこと、自然に行なわれるべきことして位置づけられていました。しかしこの当時、自分の敬虔さ、立派な信仰を人に見せるため、誇るために「善行」を利用しているような人々がいたわけです。



 「偽善者」のもともとの意味は「俳優」「役者」です。見てくれる人、観客がいて、その人たちの前で演じる人のことです。人に見てもらいたい、褒められたい、評価されたい…このような感情は誰もがもっているものです。人は皆褒められ、認められることで成長し、力を発揮することができるという面があります。しかし、私たちが人の評価ばかりを気にするようになり、その心が人からの賞賛を得ることで満たされるようになる時、一番大切にすべきことを見失ってしまうのではないでしょうか。「彼らは既に報いを受けている。」と主イエスが言われた報いとは、人からの賞賛で満足してしまって、神が与えて下さるものを求めようとしなくなっている心の状態を意味しているように思います。



 「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことをみておられるあなたの父が報いてくださる。」(6節)人が見ていない所での、神との交わりを大切にするようにと語られています。私たちの心は、何を得ることで満足を覚えているでしょうか。隠れた所での神との交わりを通して与えられる恵みを、求めるものでありたいと願います。
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