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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2012年6月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2012年6月24日 
「裁く心」加藤豊子牧師
マタイによる福音書7章1−6節



 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。」(1節)道徳の教科書にも出てきそうな、教訓のような言葉です。自分のことは棚に上げて、他人のことをあれこれ言ってしまう、それは誰にでも身に覚えのある姿ではないでしょうか。

 「裁く」という言葉は、「分ける」という意味を持ち、また区別し、見分け、選び出す、という意味を持っています。そこから、この「裁く」という言葉は「批判」「批評」を意味するようになったと言います。私たちが人のことを批判、批評する時、心の中にあるのは、自分の見方は正しい、私の判断は正しいと主張する思いではないでしょうか。



 「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、何故自分の目の中にある丸太に気づかないのか」(3節)おが屑に丸太。特に丸太が目にあるというのは想像できない姿です。主イエスの譬えは面白いほど極端なものです。人間は皆似たりよったりなのだから、相手だけを責めることは出来ない、というようなことではないのです。丸太があるのは相手の方だ、と言いたくなる私たちに、主イエスはあなたの目の中に丸太がある、と指摘されます。自分の方が正しい、自分の見方、考え方の方が正しいと、自分を絶対なものとして主張して他者を裁くところに、大きな罪があると指摘されているのではないでしょうか。



 裁く心、その中心にあるのは自分自身であり、そこには神の支配が見られません。「人を裁くな」という主イエスの言葉は、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」というメッセージと深く結びついているように思います。
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 2012年6月17日 
「今日という日を」加藤豊子牧師
マタイによる福音書6章25−34節



 「思い悩むな」という言葉が6回出てきます。私たちはなかなか「思い悩む」ということから自由になれない者です。主イエスの側に集まっていた群衆の中には、明日の食べ物をどうしようかという現実問題に直面している貧しい人々が、沢山いたと 思われます。弟子たちも、その日の糧を得るために、随分苦労していたのではないでしょうか。彼らは豊かな時代に生きる私たちよりも、もっと切実な思いで主イエスの言葉に耳を傾けていたことでしょう。



 「思い悩み」「思い煩い」というものは、明日に関わることとも言えます。「明日の安定を図ろうとして、今日の不安定を我々は招くのです。」とある人は言いました。私たちは明日の様々な思い煩いを抱えています。ああなったらどうしよう…とまだ起こってもいない事、起こるかどうかわからないようなことにも思い悩んで疲れてしまいます。



 思い悩むことの多い私たちに、主イエスは「空の鳥を見なさい、野の花を見なさい」と語られました。空の鳥も野の花も、自分で働いて何かを手に入れることはできません。しかし、そんな鳥や花たちを神は顧み養い、装ってくださる。「まして。あなたがたはなおさらのことではないか、信仰の薄いものたちよ」(30節)神が鳥や花以上に、私たち人間のことを顧みてくださるということは、言うまでもないことではないかと主イエスは語られます。

 「空の鳥、野の花は沈黙の教師である。」(キルケゴール)彼らは何も語りませんが、神が、ご自身が造られたものを顧み、生かしてくださっていることを私たちに教えています。



 「その日の苦労はその日だけで充分である。」(34節)私たちには、その日、一日の苦労というものがあると書かれています。嬉しいことだけではなく、つらいこと、煩わしいこと、一日の様々な苦労というものがあります。厳しい現実の中にも神の国、神の支配がそこにあることを見る者とされ、顧みてくださる主に委ねつつ、その日、一日の苦労を担う者でありたいと願います。
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 2012年6月3日 
「必要な糧を」加藤誠牧師
マタイによる福音書6章11−13節



 英語の聖書では「糧」という言葉は「パン」と訳されている。私にぴったりくるの「ご飯」である。しかしその言葉の前に「わたしたち」と「必要な」という言葉がある。この時、主イエスを取り巻いていた人たちの食糧事情は分からない。ただ同じ6章の後半にある「空の鳥」「野の花」のたとえから想像するに、彼らは日々の食事の心配をしていたのではないだろうか?彼らにしてみれば、自分や家族の「糧」が「今日」必要だった。そこに主イエスは、わたしにではなく「わたしたちに」と祈ることを教える。私たちの中に「ご飯」を「今日」必要としている人がいる。最大地球規模に引き上げれば数十億の「わたしたち」がいる。



 次はわたしたちの「負い目」のための祈りである。「負い目」とは「罪」である。ここでは人の罪と神への罪が同時に語られている。刑務所の塀の上はかろうじて人が立てる。たまたま風の吹きどころが反対で、塀の中に落ちた人が受刑者なのです。と、駆け出しの宗教教誨師だった時に所長に言われた事がある。多くの人が「負い目」に苦しむ。出所した後も負い目に苦しむ。「赦してください」とすがるしかない過ちを人は犯す。神にすがることは出来ても、ひとの「負い目」を赦せない時がある。それでもこの祈りを祈らねばならない。人の罪を赦すことが神から罪赦される条件では断じてない。しかし、神から赦されることと人の罪を赦すこととは不可分離の関係なのである。



 最後に「悪い者から救ってください」とある。被災地では様々な人の悪を聞き、目にすることがある。人はかくも人の弱みに付け込むものであるのか、という現実に暗澹たる思いを抱くことがある。勿論、私たちは悪と戦わなくてはならない時がある。しかし主イエスほど人の悪だけでなく悪そのものの力を知るお方はいない。主イエスの十字架以外に悪のもたらす罪への勝利はない。
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