シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2012年7月 | 1日 | 8日 | 15日 | 22日 | 29日 | 目次に戻る |
2012年7月29日 |
「清くなれ」加藤誠牧師 マタイによる福音書8章1−4節 |
◇ これは主イエスの最初のいやしに出来事である。らい病を患っている人は、他者に近づくことを禁じられていた。(旧約聖書レビ記13章)彼は一人で宿営の外に住まねばならなかった。(レビ記13章46節)だから主イエスが群衆を引き連れて山を下りられた時に、このらい患者に出会ったのも宿営つまり町の外であったからであろう。 ◇ 先日の入院の折、医者から一枚のカードをもらった。そこには数ヶ国語で「私は糖尿病です」と書かれていた。海外で低血糖になった時のためのようであるが、身から出たサビとはいえ何やら情けなかった。「わたしは汚れた者です」と自らを呼ばわり、周囲の人々に彼の病を認知させなくてはならないこの人は、律法に背くがごとく主イエスに近づき、ひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言う。主イエスは手を伸ばして彼に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われる。 ◇ もし私がこの場に弟子の一人か群衆の一人としていたら、この時どのような反応をするか想像に難くない。後ずさりして遠巻きに、しかし目を離すことが出来ずに成り行きを見守るのである。そして何故主イエスはこの人に触ったのだろうと考えるのである。清くされた事の認定は祭司の仕事である。主イエスは祭司のところにまでは同行してはくれない。私ならずうずうしくお願いするかも知れない。この人は自分で説明し、供え物を献げて自分で証明しなくてはならない。こうして社会復帰が叶うのである。 ◇ 心も体も清くされて生きて行きたい、と思うが現実はそう甘くない。心と体に悪いことをけっこう抱えて生きて行かねばならない。しかしこの人のように、人からどう思われようが当時の律法に違反していようが、主の前に清くなりたい、という思いを持って主に近づくことを神は喜んで下さるのではないだろうか。 |
2012年7月22日 |
「岩の上に」加藤豊子牧師 マタイによる福音書7章24−29節 |
◇ 山上の垂訓の最後に主イエスが語られたのは、「わたしのこれらの言葉を聞いて行なう者」になりなさい、というものです。聞いて行なう者は「岩の上に家に自分の家を建てた賢い人」にたとえられています。「わたしのこれらの言葉」というのは、5章から始まる山上の垂訓に於いて語られているすべての言葉を指します。多くの人々が、弟子たちが、主イエスの言葉を聞こうと集まっていました。その人々に向かって、聞くだけの者にならないで、行なう者になりなさい、と語られています。 ◇ 聞くことと行なうことは切り離して考えるものではないと、示されているのではないでしょうか。主イエスが語られた言葉…それは、わたしたちが行なうために語られた言葉であります。 しかし、敵を愛するように、何よりもまず神の国と神の義をもとめるように、また狭い門から入るように、という主イエスの言葉を思い起こすと、わたしたちにとって余りに理想が高く、行なうことの難しい言葉のように思えます。 ◇ ルカによる福音書に於いては、聞いて行なう人のことが「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人」にたとえられています。深く掘り下げるということは、わたしたちと主イエス・キリストとの交わりを深めることを意味しているように思います。交わりというものは、人と人との間でもそうですが、一方通行では成り立ちません。主イエスの呼びかけに対してわたしたちが絶えず応えて歩んで行く。祈りの交わりを深め、み言葉に聴き学びを深めることを通して、主イエスとの交わりも深められていきます。 ◇ 「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は実を豊かに結ぶ」(ヨハネ15:5)ここに示されているのは、主イエスにつながる、命にあふれた交わりの姿です。「実を豊かに結ぶことができる」という約束の言葉を、心に留めたいと思います。 |
2012年7月15日 |
「良い実を結ぶ」加藤豊子牧師 マタイによる福音書7章15−20節 |
◇ 「偽預言者を警戒しなさい。」 神の言葉を語る者、教える者の中に、偽者がいる、と主イエスは語ります。さらに、偽者は羊の皮を身にまとった狼のように私たちのところにやってくるとあります。出会う人が思わず警戒心を解いて心を開いてしまうように、柔らかい雰囲気で近づいてくるということでしょうか。 いつの時代にも、私たちを惑わす「偽預言者」と呼ばれる人々がいることを聖書は示しています。「わたしは彼らに語っていないのに、彼らは預言する。」(エレミヤ23:21)「わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んできて、群れを荒らす…。」(使徒20:29)主イエスご自身も、偽メシヤや偽預言者が現れて、惑わそうとするから目を覚ましていなさい、と警告されています。 ◇ わたしは大丈夫、偽者に騙されたりしない、そう思うかもしれません。けれども、似て非なる教えというものは結構近くにあるものです。神の存在、イエス・キリストの十字架と復活による救いの出来事は、人間の理解を遥かに超えた事柄です。その福音の内容を、人間の頭で理解できる次元にまで下ろしてきてしまう、私たちにとって耳触りの悪いこと、痛みに感じることは語らず、受け入れやすいものに変えてしまう…そのような誘惑にわたしたちはさらされています。 ◇ 主イエスは、良い実を結んでいるかどうか、その実で見分けなさいと言います。12節を見ると、良い実を結ぶということは、天の父の御心を行なうことであることがわかります。偽者は、神の栄光ではなく、自分に光が当たり、崇められることを求めるのではないでしょうか。 ◇ 今日の個所は、偽預言者に気をつけるようにという警告だけではなく、私たち一人一人が良い実を結ぶ者であるようにとのメッセージも語られていると思います。「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人 その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない・」(詩編1)私たちは、御言葉の恵みという流れの中に確かに根を下ろして歩んでいく時、生活の中で豊かな良い実を結ぶ者とされるのではないでしょうか。 |
2012年7月8日 |
「狭い門から」加藤豊子牧師 マタイによる福音書7章13−14節 |
◇ 聖書の示す「狭い門」とは何でしょうか。主イエスはご自分のことを「わたしは門である」「わたしは道であり」と語っておられます。狭い門とは主イエス・キリストご自身のことであり、そこを通らなければ父なる神のもとへ行くことはできない。命に至る道は、それ以外にないと聖書は語ります。 ルカによる福音書13章12節以下を読みますと、主イエスが町や村を巡って人々に教えを伝えている時に、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と一人の人が問うています。それに対する主イエスの答えが「狭い戸口から入るように努めなさい」というものです。日本における伝道の困難さを思うと、私たちも「救われる者は少ないのでしょうか」と問いたくなる思いです。 ◇ 茶室のにじり口をくぐるためには武士は自分の刀をはずし、身を低くして入らなければなりません。主イエスの門を入るためにも、私たちは自分が頼りにしているものを手離し、砕かれて身を低くする必要があります。確かに狭いように感じるかもしれない、しかし、すべての人のために開かれている門であります。 山上の垂訓は、弟子たる者の道、主イエスに従って生きる者の姿を示し、教えています。そこに示されている、まず神の国と神の義を求めていくという生き方、自分を愛するようにあなたの隣人を愛するという道、それは、私たちが何かを捨て、何かを犠牲にしなければ歩むことの出来ない道であり、主イエスの弟子として歩む道であります。それは確かに狭い門であり、私たちは日々の生活の中でどの道を歩むのかと選択を迫られます。 ◇ 主イエスは私たちのために、自分を捨て十字架への道を歩むことによってその愛を表してくださいました。私たちの前に、既にその道を歩んでくださったのです。私たちが勇気を出して狭い門、細い道に進もうとするとき、その主イエスが共にいて、支えてくださるのです。 |
2012年7月1日 |
「天の父の思い」加藤誠牧師 マタイによる福音書7章7−12節 |
◇ 12節の最後に「これこそ律法と預言者である」とこの個所が結論付けられている。「律法と預言者」とはこれこそが聖書の教えである、という意味である。自分がしてもらいたいことを何でも!人にしてあげなさい、と主イエスは言われる。 ◇ 先日とある書物で作家が「これといって欲しいものも、やりたこともない」と先輩の作家に悩みを相談していた。仕事と健康が安定しているからこそ出てくる悩みかも知れないが、案外私たちは彼と似たような意識を持ってはいないだろうか?「求めなさい。探しなさい。門をたたきなさい。」と主イエスは言われる。生へのエネルギーを鼓舞されるように私には感じられる。神様が私たちの状況をご覧になると、本当は全力で「求め、探し、門をたた」かなければならないのではないだろうか? ◇ 「あなたがたは悪い者でありながらも」と主イエスは人々に言われた。主イエスから「お前は悪い者だ」といわれれば、一言も抗うことは私には出来ない。その悪い者ですら自分の子どもには最善のものを与えようとする。それも子どもの将来を思ってである。 ◇ 「あなたがたの天の父は(彼に)求める者に良い物をくださるにちがいない」と主は約束される。神の目から見て良い物である。並行個所であるルカ11章9−13節を見ると、天の父が与えてくださるのは聖霊である。これはまた仰天する言葉である。「求め、探し、門をたたく」ことは祈りを意味している。祈りの答えは神様そのもの用意したとしか理解できない仕方で私たちに与えられる。その神様の愛と私たちへの思いに生かされる時、それは同時に他者への思いと行動へとなって表われるのではないだろうか。 |