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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2012年8月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2012年8月26日 
「ガダラの豚」加藤誠牧師
マタイによる福音書8章23−34節



 8章27節で「いったい、この方はどういう方なのだろう」という人々の驚きの言葉が記されているが、これこそが主イエスに出会った人々が持つ印象であり、福音書が語りたい事である。

 ガリラヤ湖上で嵐に苛まれた弟子たちがガダラ人の地方で出会ったのは悪霊に支配された2人であった。彼らは狂暴で墓場を住まいとしていた。彼らは主イエスに対して「神の子、かまわないでくれ。まだ、その時ではないのに・・・」と叫ぶ。



 主イエスは神の子である。これは教会にとって重要な信仰の告白である。しかしここで悪霊は主イエスに対して信仰を告白しているのではない。彼らにとっての事実を事実として言っている。否むしろ非難し懇願する。「まだ、その時ではない」とは悪霊が滅ぶべき時ではないのに、と解釈するのが一番自然であろう。彼らは自分たちが滅びる時が来ることを知っている。しかし今ではない、というのが主張である。悪霊は人間から追い出すのなら豚の群れの中にやってくれと願う。

 「行け」と主イエスから命じられた悪霊が入った豚の群れはしかし崖を下り、なだれをうって湖に入り死んでしまう。この表現からは悪霊も死んでしまったことが示唆される。この出来事を私たちはどのように受けとめればよいのだろうか?



 悪霊は自らが滅ぼされる時が来ることを知っていた。しかしその時は悪霊が決めることの出来ないものであった。ユダヤ人である弟子たちからして見れば、悪霊に支配された2人は異邦人であった。神の恵みの外にいるはずの人たちであった。しかし彼らは断固として「悪」霊と戦う主イエスの姿を見る。

 「悪」の問題はそれが自分の中にも歴然としてあるが故に簡単には語れない。しかし聖書は「悪」の問題にメスを入れる。主イエスの存在をかけてメスを入れる。「この方はいったいどういう方なのだろう」とは主イエスを救い主として信じて歩む私たちにとっても避けて通れない問題である。
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 2012年8月19日 
「弟子への想い」加藤誠牧師
マタイによる福音書8章18−22節



 一連のいやしの出来事の後に主イエスは、自分を取り囲む群衆から離れることを望むかのように「向こう岸に行くように」と弟子に命じる。「向こう岸」とあるからには主イエス一行は川岸か湖畔にいることになる。23節以降には「湖」とあるので、ガリラヤ湖の向こう岸を船で目指そうとしていることが分かる。



 主イエスはここで日常的に起こり得ることを命じているのではない。この出来事の後を読み進めて行けば、「向こう岸」とはガダラ人の地方であり、豚を飼っていることからも、ユダヤ人が絶対に足を踏み入れない場所である事は明白である。しかも律法によって外国人と交際することは禁じられていたはずなので、主イエスが「向こう岸」に行くように命じられたからといって、弟子としてもそうそう簡単に従うわけにはいかなかったはずである。

 であるからして、ある律法学者が近づいてきて「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言ったのは、状況を考えるなら、しかも律法学者の言葉であることを加えると、あり得ないほどの事柄であろうと思う。



 これに対する主イエスの返答は「狐には穴があり・・・・人の子には枕する所もない」である。主イエスはここで余りに忙しいご自分の状況を愚痴られたのであろうか?もっと素直に彼の決断を喜んで下さってもいいように聞こえる。私たちには簡単には主イエスの喜びの応答としては受け止めにくいかも知れないが、ここには主イエスの気持ちが込められている。律法学者に対してご自分を「人の子」と言われた。彼ならばその意味するところが分かったのではないかと思います。つまり旧約聖書のダニエル書で言われている「人の子」つまり天から下ってくるメシアです。



 「向こう岸」に渡ることは簡単ではありません。「向こう岸」で待っていたことも人の手では解決出来ない事でした。しかし主イエスは今日もご自分と共に「向こう岸」に渡る人を求めています。主イエスをメシアと信じて。
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 2012年8月12日 
「担われる主」加藤豊子牧師
マタイによる福音書8章14−17節



 8章には、主イエスによる三つのいやしの出来事が記されています。絶えず群衆が押し寄せてくるという中で、目の前にいる一人の人に向き合ってくださる主イエスの姿があります。

 このいやしのわざを通して思わされることは、主イエスが律法という枠を越えて、愛のわざを示しておられることです。



 重い皮膚病を患っている人は、律法では汚れている、とみなされ、触れることは勿論のこと、近づくことも許されませんでした。自分で「わたしは汚れた者です」と言わなければならず、ユダヤ人社会の外に出なければならない存在でした。

 次にいやされたのは、百人隊長の僕ですが、百人隊長は外国人であり、ユダヤ人とは交際を禁じられていました。彼らは、神の救いの外にあると見なされていた存在でした。

 そして、マルコやルカを読むとわかることですが、主イエスがペトロのしゅうとめをいやされたのは、安息日の出来事だったのです。その日は律法で働くことが禁じられていた日でありました。



 主イエスはユダヤ人社会の交わりから追い出されたような人に近づいて手を触れてくださり、律法という決まりを破ってでもその愛を示してくださいました。 「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」(17節)これは、イザヤ書53章からの引用です。ここに示されているのは、その当時人々が期待していた、ローマの支配から解放してくれる強いメシア像ではなく、自らが傷つき苦しみながらもわたしたちの患い、病を負ってくださる苦難の僕の姿です。



 病むということは、身体的な痛み、苦しみのみならず、様々な思い悩み、不安を生じさせます。そしてやがてすべての人は死、というわたしたちの力ではどうすることもできないことと向き合わなければなりません。ご自分の生涯を通して、何よりも十字架によって、あらゆる苦しみ、痛み、悩みを経験された主イエスは、わたしたちの苦しみ、悩みを理解し担い、また魂に安息を与えてくださるお方であります。
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 2012年8月5日 
「ただ、ひと言だけ」加藤誠牧師
マタイによる福音書8章5−13節



 マタイによる福音書が伝える2件目の「いやし」の出来事である。一件目と同じく状況として極めて異例である。「百人隊長が近づいてきて懇願し」とある。百人隊長はローマに所属する軍隊の中堅指揮官である。当時、ローマの支配を受けていたユダヤ人が感情的にローマ兵をどう思うかは個人差があろうが、新約聖書の使徒言行録10章にペトロと別の百人隊長の記事がある。そこでペトロは「ユダヤ人が外国人と交際したり・・訪問したりすることは律法で禁じられている」と語る。



 話をマタイに戻すと、百人隊長の懇願に主イエスは「わたしが行っていやしてあげよう」と平然と律法に背くことを言われる。百人隊長の答えは「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」である。彼はユダヤ人の目から見た自分たち外国人がユダヤの神の救いの中に入っていない、という考えを知っているかのようである。しかし主イエスを「イスラエルの中でさえ、これほどの信仰を見たことがない」と驚かせたのは、百人隊長の「ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」の言葉であった。

 牧師として、時として困るのは「ひと言」を求められることである。しかも突然に。気の利いた事は言えなくてもせめて徳の立つ事を言わなくてはと思うが現実は厳しい。



 主イエスが求められたのは人をいやし、生かすひと言であった。それを切実に、信じて疑わずに求められたのである。「帰りなさい。あなたの信じたとおりになるように」、それが主イエスの応えであった。

 信じることのひたむきさ、純粋さをこの出来事から考えさせられる。信仰が自分の心の中の事柄ならば、いつの間にかそこに「諦め」入り込む。百人隊長は恐れなく主イエスに近づき懇願した。先週のらい病人もそうであった。信じたことが主イエスの言葉により現実になる。そうでなくては信仰生活はつまらない。
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