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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2012年9月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2012年9月23日 
「触れさえすれば」加藤誠牧師
マタイによる福音書9章18−26節



 「指導者」というからには町の人たちに良く知られ、かつ尊敬されていた人物であったろう。その人が人目もはばからずに「ひれ伏して」とんでもないことを主イエスに懇願した。たった今亡くなった娘に手を置いて生き返らせてほしい、というのである。主イエスからの直接の返答をマタイは記さない。しかし彼の後について行かれた時に第二の出来事が起こる。婦人病で12年も苦しむ女性が近寄り主イエスの服の房に触れる。主イエスの服に触れさえすれば病が治ると彼女は思ったのである。



 彼女の願いどおり触れた瞬間に病が治ったとはマタイは記さない。主イエスが振り向き、恐らくはしっかりと目を合わせて「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と言われた時彼女は治る。彼女を治したのは主イエスなのに「あなたの信仰があなたを救った。」と言われたのは何故なのだろう?「手をおいてもらえれば生き返る」「服に触れさえすれば治る」というのはここを読む限りでは当人の思い込みのように思える。彼らは主イエスの何を知っていたのだろう?



 二人に共通して言えるのは最早主イエスにすがる以外に希望がないということである。そしてその希望を手にするためにはなりふりかまわない。二人の出来事は「命」と「救い」に関わる。何歳であろうと死を迎えた人間に命を与えることは人間には不可能である。命の与え主は神であり、主イエスに出会い信じることは「命」に繋がることである、というのが聖書のメッセージである。救いを求めている人間を本当に救うことが出来るのは人間ではない、主イエスのもとにこそ救いがある、というのが聖書の明確なメッセージである。



 病に人は苦しめられる。しかし人の心の奥深くに救う病は「自分は救われない」という思いではないだろうか。二人は主イエスに手を伸ばした。人の心の奥深く、時に死と深く結び付く病を治すお方がここにおられる。
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 2012年9月16日 
「新しい革袋」加藤豊子牧師
マタイによる福音書9章14−17節



 古いものを新しいものに変える、古いやり方を新しいやり方に変える。そこには、緊張や摩擦が生じるものです。ここに於いても、古い律法主義と新しい主イエスの教えがぶつかり、摩擦を引き起こしています。

 ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は、断食を重んじる人々でした。断食は、日々の生活で大切にされるべき宗教的善い行いの一つとされていました。年に5日の定められた断食の他に、週に2日、断食を守っていたと言います。そんな彼らの目の前で、主イエスは食事をしていたわけです。しかも、徴税人や罪人たちを招いて、一緒に楽しんでおられたのです。彼らは、近づいたら自分たちまでも汚れてしまうと考えられ、決して交際することのなかった人々でした。それは、ヨハネの弟子たちにとっては信じられない光景であったことでしょう。



 主イエスは「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。」(15節)と言われました。喜びの場に客として招かれていながら、今は断食の時だからと言って嘆き悲しむのは不釣り合いなことです。花婿は主イエスのことであり、そこに招かれている客は私たちのことを指していると言えるでしょう。結婚式というのは、主イエスに招かれた喜び、豊かな交わりが与えられた喜びが溢れている場面です。私たちの信仰生活の根本にあるもの、それは喜びではないでしょうか。主イエスによって救われ、主と共に生きる者とされた喜び、それは何ものにも奪われることのない主イエスにある喜びです。



 「新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。…」(17節)新しいぶどう酒は発酵する勢いが強く、それを古い革袋に入れれば破れてしまいます。新しいぶどう酒とは主イエスの新しい教えのことであり、古い革袋はファリサイ派の人々の律法主義のことを指していると言えるでしょう。両者の間には大変な緊張関係があり、無理に合わせれば破れてしまいます。「新しいぶどう酒は、新しい革袋に…」と主イエスは言われます。私たちの心も、なかなか古いものから離れられない、頑な固い心であるかもしれません。新しい、柔らかい心で主イエスの教え、福音を受けとめるようにと主は招いておられます。
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 2012年9月9日 
「神が求めるもの」加藤豊子牧師
マタイによる福音書9章9−13節



 徴税人という職業の人たちは、ユダヤ人から大変軽蔑され、嫌われていました。彼らは、敵国ローマに雇われて税金を取り立てていたわけですから、裏切り者と思われていたでしょうし、律法によれば異邦人に仕えること、この世の富を日々取り扱うということは、汚れたこと、罪深いことでもありました。収税所に座っているマタイの姿…それは、ユダヤ社会の中で居場所を見出せない、孤立した存在であった彼の姿を示しているのではないでしょうか。



 その後に記されているのは、食事の場面です。「徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。」(10節)とあります。「罪人」とは、律法を守ることの出来ない人々、ユダヤ人社会の交わりの中に入れない、失格者とみなされているような人々のことでした。「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」とファリサイ派の人々は弟子たちに問いました。汚れているとされる罪人たちと一緒に食事をしたら、自分たちも汚されてしまうと考える彼らにとって、主イエスの行動は理解できないものでした。



 主イエスが私たちに示してくださった救い、それは救われるために上を目指して努力して得られるものではありません。主イエスは、ご自身が私たちのところに下って来られたのです。家畜小屋の飼い葉桶の中に生まれた主イエスは、社会から疎外され、見捨てられたと感じている人々、徴税人や罪人たちと食事を共にし、最後にはすべての人の罪を背負って身代わりとなり、十字架の上で罰を受けてくださいました。



 ファリサイ派の人々に向かって主イエスは言われました。「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」(13節)正しさを追求するファリサイ派の人々の中に、憐みの心、愛がないことに主イエスは心を痛めておられたのだと思います。私たちもクリスチャンとして、自分が正しくあることを求めることに熱心で、他者に対する憐みの心に乏しくなり、いつの間にか裁く心に支配されるようなことがあるかもしれません。神の求められるものを、心に留めたいと思います。
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 2012年9月2日 
「元気を出して」加藤豊子牧師
マタイによる福音書9章1−8節



 「あなたの罪は赦される。」目の前に連れて来られた中風の人に対し、主イエスは言われました。大変唐突な言葉のように思えます。何かをしてくださる前に、先ず最初にあなたの罪は赦される、と言われたのです。

 その当時のユダヤ社会の病に対する考え方は、病は罪の結果である、というものでした。それは病を神からの罰と考える考え方と言えるかもしれません。重い病気になったら、それは本人あるいは親、先祖が重い罪を犯したせいなのか…そのような考え方は差別や偏見を生むものであり、主イエスご自身が否定されています。



 創世記1章に記されている、神が造られた最初の世界は「極めて良かった」とされる美しい世界であり、そこには病や死というものは存在しませんでした。ところが、最初の人間は神との約束を破り、取って食べるなと言われていた木の実に手を伸ばして食べてしまった。これは、人間が神に造られた者であることを忘れ、神に背をむけて 自分勝手に生きようとし始めた姿、すなわち罪の姿を表しています。そしてそこから、美しい世界に病や死というものが入ってきたのです。私たちの世界には様々な苦しみがあり、争いは絶えず、病や死、それに対する不安や恐怖を抱えています。その根本には、すべての人が抱えている罪という問題、神との関係が壊れてしまっているという問題がある、というのが聖書が示していることです。今日のところでは、私たちのもろもろの罪を赦すことの出来るお方、罪を赦す権威を神から与えられている救い主イエスの姿が示されているのです。



 「元気を出しなさい」と主イエスは言われました。そしてこの病人は最後には起き上がって、家に帰って行きました。元気であるということは、身体が健康だということでも精神が強靭だということでもなく、神の前に罪赦されたものとして、自分の人生をしっかりと主体的に生きる、神と共に生きる、ということを意味しているのではないでしょうか。

 自分では助けを求めることもできなくなっていた病人を主イエスのもとに連れてきた人々がいました。「イエスは彼らの信仰を見て」とあります。信じる心のあるところに神の業が行なわれることを覚えます。
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