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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2012年10月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
2012年10月28日 
「遣わされた者」加藤豊子牧師
マタイによる福音書10章16−25節



 「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」(16節)狼の群れの中に、弱い無防備な羊が放り込まれたら、ひとたまりもありません。そのような厳しい状況、迫害という苦難が遣わされて行く弟子たちを待ちうけていると主イエスは語られました。

 さらにその先には、主イエスのために裁判にかけられ鞭打たれ、家族さえも敵となり、すべての人に憎まれるということまで記されています。どれも、自分の身にふりかかって欲しくないことばかりです。



 苦難の道を歩み出そうとしている弟子たちに、主はその心構えとして次のように語られました。「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」(16節)蛇は知恵の象徴であり、鳩は純真と柔和の象徴です。現代は知恵を使って上手に人を騙す、陥れる罠に気をつけなければならない時代です。教会も、様々な危険に注意しなければならないでしょう。鳩の素直さとは、純粋に神に向かう心、裏表のない、混じりけのない心、言葉を変えるならば「幼子のような心」ということが出来ると思います。その心を基本に持ちながら、正しく状況を判断し、見極めることの出来る知恵、賢さを持つようにと勧められているのではないでしょうか。



 振り返ってみればキリスト教の歴史は迫害の歴史であるとも言えます。一つの町で迫害されたときは、他の町に逃げて行きなさい、と勧められていますが、追われて逃げて、散らされることによって不思議なことですが、福音はより遠くへ、多くの人々のもとに伝えられてきました。

 「話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」(20節)厳しい迫害の中に、豊かな聖霊の働きがありました。今私たちは、裁判にかけられ鞭打たれ、という目に会うことはないかもしれまんが無関心、拒絶という壁に直面しているのではないでしょうか。しかし、今も変わらずに豊かな聖霊の助けが与えられていることを覚えつつ、主に遣わされた者として歩ませていただきましょう。
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 2012年10月21日 
「12弟子の派遣」加藤誠牧師
マタイによる福音書10章1−15節



 ここに記されているのは地域制限、そして恐らくは期間限定の弟子たちへの伝道訓練である。目的は8節にあるように「ただで受けたのだから、ただで与え」るための訓練である。そのために弟子たちには徹底した指示が与えられる。金銭を持たず、着のみ着のままで旅をしなくてはならない。

 この時いったい主イエスに何人の弟子がいたのかは分からない。しかしここで呼び寄せられた12人の弟子たちは、直ぐに「使徒」と言い直されていることからも分かるように特別な存在であった。そして特別な訓練を受ける。



 彼らが出来ることは調査である。彼らを迎え入れるのに相応しい人をよく調べるように主イエスから言われる。どんなに親切を受けても彼らには物理的に「お返し」するものがない。主イエスから所持することを禁じられていたからである。しかし彼らが「ただで与える」ものこそこの世がいかにしても与えることが出来ないものである。「汚れた霊に対する権能」そして「平和」。これこそが弟子たちが主イエスからただで受けたものである。そして弟子たちのみならず教会もそれを徹底的に「ただで与える」訓練を主イエスから与えられなくてはならない。



 弟子たちは訪ねる人について調査をしたで あろうが、主イエスは上手くいかなかった場合も想定して弟子たちを派遣する。つまり彼らの伝道を受け入れない人がいたとしても、その平和は弟子たちに返ってくるのである。

 教会がそして個人が伝道や証をしても効果がないのではないかという恐れを私たちは抱きやすい。拒絶される場合もあるであろう。しかし私たちがたずさえていく主イエスの「平和」は、空しくは地に落ちない。私たちの教会に対する祝福となって返ってくるのである。
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 2012年10月7日 
「主イエスの眼差し」加藤豊子牧師
マタイによる福音書9章35−38節



 「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(36節)

 主イエスは群衆をご覧になりました。主イエスの目には、一人の例外もなく、彼らが飼い主のない羊のように弱り果てているように見えました。主は私たちの外見ではなく、その魂、霊的存在を見ておられます。さらに、「深く憐れまれた」とあります。「憐れむ」という言葉は内臓、はらわたを意味します。ユダヤの思想では、内臓は人間の深い感情の宿るところと考えられていました。

 私たちも憐みの感情を抱きます。しかしそれは、主イエスの深い憐みに比べたら、どこか表面的なものなのではないでしょうか。主イエスの憐みとは、気の毒そうに高い所から見下ろすようなものとは異なります。はらわたが痛み、心が切り刻まれるような思いを抱かれ、さらには自分が傷つくこともいとわず自分の身を投げ出してでも救おうとする思いがそこにあります。町や村を残らず回って教え、宣べ伝え、いやされた主イエスの宣教活動の姿は、見失った一匹の羊を見つけ出すまで探し回る良い羊飼いの姿に重なって見えるように思います。



 今日は世界聖餐日でありまた、世界宣教の日でもあります。今日に至るまで、収穫の主に遣わされた働き人が世界各地で宣教の業を担って来られました。そこには多くの涙と祈り、そして神の豊かな働きが示されたことを思います。私たちの目には、とても収穫が多く望めない現状に映るかもしれません。しかし主は、「収穫は多い」と語られます。「収穫の主に願いなさい。」と主に祈り求めることの大切さが語られています。



 礼拝は、主に招かれ、そして祝福を受けて私たち一人一人が送り出されて行く時です。私たちも、主の愛に押し出されて、それぞれの場に遣わされて行く者でありたいと願います。
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