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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2012年11月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
2012年11月25日 
「安らぎはどこに」加藤豊子牧師
マタイによる福音書11章25−30



 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(28節) よく教会入口の掲示板などに書かれている、大変有名な聖句です。疲れを覚えている私たちすべての者に対する、主イエスの招きの言葉です。

 「重荷」とは何なのか。一つには、当時のユダヤ社会で守ることを厳格に求められていた、律法の細かな規則のことを意味しました。それを守れない人々にとって、律法はその人の肩にのしかかる重荷のように感じられたことでしょう。



 「重荷」が意味するもの、それは律法のことだけではなく、私たちが経験する人生の思い煩い、苦しみ、様々な問題をも含んでいます。家族のこと、自分自身こと、仕事、人間関係の難しさ…多くのことが重荷となって私たちの上にのしかかっています。他人にはなかなか理解してもらえないと感じられる重荷もあるでしょう。負わされている、と思うと余計重く感じられるのではないでしょうか。



 主イエスは「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。」と言われます。「くびき」とは、二頭の牛が並んで歩くために首に付ける道具です。くびきをつけるというと、窮屈な縛られるような感じがするかもしれません。しかし主イエスが与えてくださるくびきは、その人が傷つかないように、丁寧に調整して合わせてあるものです。くびきを負うとは、主イエスと並んで共に歩んでいくことを意味しているのではないでしょうか。

 主イエスに学び、従う生き方に約束されていることは、安らぎです。安らぎと言う言葉は、元は竪琴の弦をゆるめることから来ているそうです。私たちは一人で重荷を背負い込もうとして、緊張し、張りつめた状態なのかもしれません。真の心の安らぎは、主イエスと共に生きることの中に約束されています。
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 2012年11月18日 
「現代のヨハネ」加藤誠牧師
マタイによる福音書11章2−19



 聖書が伝える洗礼者ヨハネと主イエスとの関係は必要最低限であるために、例えば「牢の中でキリストのなさったことを聞いた」(2節)と記されていても、何をどのように聞いたのかは分からない。ただ自分の弟子を送って「来るべき方はあなたでしょうか」と尋ねさせるからには、かつての確信が今になって揺らいでいるのであろうか。ヨハネが牢にいる理由は14章で明かされる。結果から言えば彼の命の終わりは旦夕に迫っている。



 主イエスの洗礼者ヨハネへの弟子を介しての応答は、最終的にヨハネが聞いた主の言葉になってしまったであろう。そう考えると、ただ単に主イエスはヨハネの質問に応えただけでなく、彼の最後を見通した上での言葉であったと考えるのは穿ち過ぎであろうか。特に5節の「死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」との主イエスの言葉はヨハネにどのように響いたのであろうか?



 主イエスによれば福音が告げ知らされるのは貧しい人である。律法にのっとり正しいことを主張した結果牢に入れられ、王は殺害の思いを持ち、自らは主イエスをメシアかどうかを疑う迷いの中にヨハネはいる。もし主イエスがメシアでなかったなら、ヨハネは死んでも死にきれない思いになったであろう。かつて宗教教誨師をしていたことがあるが、刑務所の中で人は嫌でも自分を見つめ直さなくてはならない。私の知る限りでは9割の人が自分の心の弱さが刑務所に入る原因だと思っているし、後悔もしている。病も又私たちの弱さ、貧しさと結びついている。



 主イエスは牢の中のヨハネに福音を伝える。ヨハネを救うのはヨハネ自身ではない。主イエスの福音である。それはまた同時に弱さと貧しさの中にある私たちを救うのも福音であるのと同じ意味である。
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 2012年11月11日 
「ふさわしい者」加藤豊子牧師
マタイによる福音書10章32−39節



 「平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」(34節)これから派遣されようとしている12弟子に向けての主イエスの言葉は、大変厳しいものです。降誕物語の中で、天使が「いと高きところには神に栄光あれ、地には平和…」と讃美したように、神の御子、イエス・キリストは平和の君としてこの地上に来てくださったのではなかったでしょうか。

 さらにその先には、子は親に敵対し、こうして自分の家族の者が敵となる、とまで記されています。聖書は父母を敬うことを勧め、また兄弟が和合することの麗しさを語っていたのではないでしょうか。神への愛と家族への愛とは対立するものなのでしょうか。



 「敵対させる」という言葉には、引き裂く、分離させるという意味があります。主イエスを信じて生きる、ということは家族でさえ踏み込むことの出来ない事柄であると思わされます。私たちは心の中に、神と出会うことのできる場所を持っています。そこでは一人一人が神の呼びかけに対してどう応えるかが問われるのです。そこには家族とさえ分かち合うことの出来ない、決断があります。

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。」(37節)これは、神への愛か、家族への愛かと二者択一のような選択を迫っている言葉ではないと思います。ここで問われていることは、何ものにもまさって優先されるべきことは何か、ということではないでしょうか。



 主イエスに従って生きる道、それは様々な痛みを伴うものかもしれません。家族の中で理解されない、孤立無援を感じさせられるという痛みもあるかもしれません。しかし、主は自分の十字架を担って従いなさいと言われます。一人一人、担うものは異なることでしょう。主は、決して私たちが負いきれない重荷を与えることはなく、またその重荷を共に担ってくださるお方であります。

 わたしは道であり、真理であり、命である。と言われるお方に出会うことのできた恵みに感謝しつつ、自分に与えられた十字架を担って主の招きに従う者でありたいと思います。
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