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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2012年12月30日 
「安息日の主」加藤豊子牧師
マタイによる福音書12章1−8節



 安息日を厳格に守る根拠、それは旧約聖書に記されている十戒と天地創造の業の中に見出すことが出来ます。ユダヤ社会において、安息日を守ることは大変重要な戒めでありました。出エジプト記20章には十戒の第四戒として、次のように記されています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。」さらに、神は天地創造の業を完成された後、第7の日にその仕事を離れ、安息なさった、とあります。安息日は、私たちが仕事を休み、神を礼拝する日として神が定めてくださった日であります。



 安息日に禁止されている仕事とは、どのような仕事なのか…そのような細かいことを考え、議論する専門家たちが律法学者やファリサイ派の人々でありました。安息日にしてはならない、という細かな禁止条項が一般の人々の上にのしかかる重荷となり、首を締め付けるくびきのようになっていました。

 そのような中で、主イエスの弟子たちは空腹のため、安息日に他人の麦畑で麦の穂を摘んで食べていました。問題になったのは、他人の畑の麦の穂を食べたことではなく、安息日に刈り入れ、脱穀というような仕事をしたことでした。



 非難するファリサイ派の人々に対して「わたしが求めるのは憐みであって、いけにえではない」と主イエスは言われました。正しく、一つも間違えることなく規則を守ることは、必ずしも人を生かすことにはつながらないことをおっしゃりたかったのではないでしょうか。

 私たちは主イエスの復活を記念して、日曜日毎に礼拝を守ります。主は「わたしのくびきを負い私に学びなさい、そうすれば安らぎを得られる」と語られました。安息は、主イエスと共に並んで歩んで行くこと、主イエスに学ぶことの中に約束されています。日曜日は主イエスこそが私たちに真の安息を与えてくださるお方であることを覚える日なのではないでしょうか。
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 2012年12月23日 
「クリスマスの喜び」加藤誠牧師
マタイによる福音書2章1−12節



 シロアム教会担任教師の齋藤朗子先生が働いておられるケルン・ボンにはこのマンションを5つ合わせたよりも巨大な教会があります。礼拝堂の中には鉄格子で厳重に守られた黄金の棺があり、中には東から来た占星術の学者たちの遺骨が入っています。勿論、数百年にわたる巡礼の対象です。



 ヘロデ王に騙され、メシア殺しの方棒を担がされるすんでのところで彼らは夢でお告げを受け「別の道を通って」自分たちの国に帰ります。オー・ヘンリーの名作「the gift of Magi」の「Magi」が占星術の学者に当たる言葉ですが、仮にペルシャだとすると1000キロもの長旅、しかも高価な贈り物を守るために隊列をしたてての旅であったと思います。ですからベツレヘムで「その星を見て喜びにあふれた」と聖書が記すのも無理からぬことだと思います。



 彼らの「喜び」には目的地に無事に着いた以上のものがあります。それは彼らが「ひれ伏して幼子を拝み」という行為に表されています。通常、いくら王の息子とはいえ、たかがユダヤの王です。学者たちがヘロデを拝んだとは聖書は間違っても言いませんから、この幼子は礼拝の対象なのです。歴史上、神を名乗り、或いは祭り上げられた人物は存在します。しかし学者たちの目の前にいるのは、無力なしかもどう考えても財力や権力とは無縁の両親から生まれた幼子です。その幼子を彼らはメシアと信じて拝んだのです。



 クリスマスの喜びは贈り物の交換ではありません。メシアが私たちの世界に与えられた事に喜びの根底があります。もう少し進めるなら、この学者たちのように主イエスを伏し拝む、つまり礼拝するところに本来のクリスマスの喜びがあります。そしてメシアとの出会いは学者たちに「別の道」が用意されていたように、私たちにも新しい道を歩むことを意味するのではないでしょうか。
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 2012年12月16日 
「神、我らと共に」加藤誠牧師
マタイによる福音書1章18−25節



 マリアの夫ヨセフに唯一スポットライトが当たる個所である。マリアの妊娠を知り、悶々と悩んだ末ヨセフはひそかな離縁を決断する。色々なことを飲み込み、彼が出来るギリギリの決断であった。「このように考えていると、主の天使が夢に」現われる。(20節)彼は考えるのに疲れ果てて眠ったのであろうか。カトリックの神学者によれば天使の羽は時空を超える力を持つそうな。しからば夢に現れることも可能か?ギリシャ語の聖書ではここに「見よ」という言葉が入っている。天使さん、けっこうすれすれのタイミングで現われたようである。



 ヨセフが天使の言葉をどれだけ理解出来たかは分からない。「聖霊によって宿る」など私たちの常識外である。しかしそれ以外に人を罪から救うことはあり得ない。「神は我々と共におられる」と言われても、ヨセフの現状は中々厳しい。天使が夢に現れるまでは、彼は不幸のどん底の気分を味わっていたに違いない。しかし聖書のメッセージは、誰にも理解されない不幸のどん底にあっても「神は我々と共におられる」である。



 旧約聖書にも同じ名前を持つ人物がいる。創世記に出てくるヨセフである。彼は年上の兄弟たちに憎まれエジプトに奴隷として売られる。更に無実の罪を着せられ監獄に入れられる。しかしそこで聖書は「主がヨセフと共におられ」と言う。(創世記39章21節)肉親から見捨てられ、誰の助けも望めない異国のしかも監獄という最悪の状況のなかで、しかし聖書は「主がヨセフと共におられ」と言うのである。

 神が私たちと共におられるのは、決して私たちが順調に物事を進めている時だけではない。むしろ逆境の中、誰からも理解されず助けも期待できない中で、しかし「神が共におられる」のである。
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 2012年12月9日 
「マリアの歌」加藤豊子牧師
ルカによる福音書1章39−56節



 あなたは男の子を産む、生まれる子は神の子と呼ばれる、そのように告げられたマリアの驚きは、計り知ることができません。天使から、おめでとうと言われ、マリアはその言葉に戸惑い、考え込んだとあります。恐れることはない、と言われても、自分の身に何が起こっているのか理解できず、この先どうなるのかも分からない不安と恐れの中にいたことでしょう。しかしそのような中で、マリアは「お言葉どおり、この身になりますように。」と応えます。



 46節以下はマリアの歌と呼ばれ、教会の長い歴史の中で繰り返し歌われてきた讃美です。この歌の最初の言葉は「あがめる」(マグニフィカート)から始まり、その意味は相手を大きくするというものです。マリアは、わたしの命、私のすべてで神を崇めます、神を大きくします、と歌っています。私たち人間は、何とかして自分を大きくしよう、少しでも大きく見せよう、と計るところがあるのではないでしょうか。私の心の中で、日々の生活の中で、神はどのような存在となっているでしょうか。私の計画、思いの方が大きくなって、神様のことは隅に追いやられていることはないでしょうか。



 マリアは自分のことを、身分の低いはしためである、と言いました。神の前に、自分を低く、小さくしているマリア、そして大きな神の計画に身を委ね、勇気を出して応えて行くマリアの姿の中に真の謙遜を示されます。「その憐みは代々に限りなく、」(50節)マリアは神の憐みに信頼し、その語られた言葉に対して真実であり続けてくださるお方に望みを置いています。

 アドベントの時、不安と戸惑いの中にも神を崇め、神を大きくし、自分を低くすることのできたマリア、神の憐み、真実に信頼し、身を委ねているマリアの姿を心に留めたいと願います。
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