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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2013年1月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2013年1月27日 
「種を蒔く人」加藤豊子牧師
マタイによる福音書13章1−17節



 主イエスが話してくださった「種を蒔く人」のたとえ話で、「種」にたとえられているのは「御国の言葉」、すなわち神の言葉であると言って良いでしょう。



 道端は、人の足で踏みかためられた固い土地です。それは、み言葉を聞いてもはね返してしまう、全く受け入れようとしない心を表しているようです。石ころだらけの土の薄い所では、種は直ぐに芽を出します。でも根がないために、日照りで枯れてしまうのです。これは熱しやすく冷めやすいという言葉が当てはまるような心です。御言葉を聞いて直ぐに受け入れますが、何か自分に都合の悪いことが起こりそうになると直ぐに離れてしまうのです。茨という雑草が生い茂って、蒔かれた種の成長を妨げてしまう所、それは、家族、仕事、将来のこと、様々な生活における心配事や誘惑で塞がれてしまって御言葉を素直に聞くことの出来なくなっている心を表しているようです。



 しかし、「良い土地に蒔かれたものとは、み言葉を聞いて悟る人であり…」とあります。聞いて悟るとは、み言葉がしっかりと心の中に根付くことによってその人の生活の中に具体的に実を結んでいくことを意味しているのではないでしょうか。100倍、60倍、30倍とそれぞれにふさわしい実を結ぶことが出来ると約束されています。



 主イエスはこのたとえの説明を群衆にではなく、弟子たちに向けて語られています。伝道の働きを担う弟子たちに、行く先々で経験するであろう伝道の厳しさ、困難を伝えておられるように思います。遣わされて行く時、そこで出会うのは道端のように固く閉ざされた心であり、拒否、無視すると言った態度かもしれません。熱心に受け入れた人が去って行くということにも出会うでしょう。しかし、その中でも、良い地に蒔かれた種は必ず実を結ぶことが出来ると約束されています。様々な誘惑、困難の中でも、み言葉を聞いて悟り、良い実を結ぶ人が起こされていくのです。これは弟子たちへの励まし、希望の言葉であり、今日の私たちに向けても語られている言葉です。
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 2013年1月13日 
「しるしを求めて」加藤豊子牧師
マタイによる福音書12章38−42節



 安息日を巡っての論争に始まる、主イエスと律法学者・ファリサイ派の人々との対決が続いています。主イエスは彼らを「蝮の子ら」と呼び、また、悪い実を結ぶ悪い木に譬えました。律法の専門家であり、人々から尊敬を受ける立場にあった彼らは怒りに燃え、主イエスに向かって「先生、しるしを見せてください。」(38節)と詰め寄ります。

 「しるし」とは証拠のことです。そこまで言うんだったら、あなたがメシア、救い主であるという証拠を見せてください、と言うわけです。彼らは、目で見て、手で触って確かめられるような証拠を求めました。主イエスを信じたいと、心から願って求めたのではありません。「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。」(14節)とありましたが、ファリサイ派の人々は殺したいと思うほどの憎しみ、妬みを抱きながら主イエスに詰め寄っているのです。



 そのような心でしるしを求める声に対して、主イエスは直接的な答えを示されず、「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」とお答えになりました。三日三晩、大きな魚の腹の中で過ごしたというヨナのしるしの示しているものは、主イエスの十字架とよみがえりの出来事です。この十字架と復活こそが、主イエスが私たちに与えてくださった唯一のしるしであります。



 福音はすべての人に向けて語られていますが、聞いた人すべてが信じることができるわけではありません。神から遠いとろこにいると思われたニネベの人々は、ヨナの言葉を聞いて悔い改めて神に立ちかえることができました。律法学者たちは神の言葉のすぐ近くにいる人々でしたが、ヨナにまさるものである主イエスの言葉を聞いても、受け入れることができませんでした。



 私たちも「しるしを見せてください」と証拠を求めて反発する、頑なで、容易には信じる心を持つことの出来ない者かもしれません。しかし、み言葉が語られ、そこに祈りと聖霊の働きがある時に、信じない心から信じる心に変えられるという奇跡が今も与えられるということを覚えたいと思います。
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 2013年1月6日 
「傷ついた葦を折らず」加藤誠牧師
マタイによる福音書12章15−21節



 先週の出張は弘前、仙台であった。弘前では相棒Tの勧めもありランプの灯りで有名な宿を選んだ。良く手入れされていてくすぶってなどいなかったがいかにせよ暗い。本も読めず9時過ぎに就寝。実に健康的。当たり前だがランプは燃えると匂いを出す。もしくすぶりでもしたら酷い匂いであったろう。



 先週からの話が今週も続いている。安息日の規定の話から今週は「正義」が中心のテーマになる。ファリサイ派(人)の正義と神の正義は違うというのが主イエスの主張である。神の正義は「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」仕方で表されると主イエスは言われる。

 パスカルによれば「葦」は自然界で最も弱いものの象徴であったであろうか。マタイ福音書では主イエスの十字架の場面で2回登場する。個人的には「死」に近いイメージを感じる。教会の争い事でうんざりするのはそれが「正義」と「正義」の戦いであるからである。信徒同士であろうが牧師同士であろうが「正義」の戦いは「傷ついた葦」を折る。「くすぶる灯心」は切り捨てられるしかない存在である。私たちの魂からはどんなにか悪臭が漂っていることであろう。神の前に切り捨てられて当然の存在、それがユダヤ人にとっての異邦人、実はユダヤ人も含めた人間の姿であろう。



 主イエスは「傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない」と言われた。福音は人を生かすのである。存在価値のない「くすぶる灯心」を消さずに灯心として用いるのである。それは神の奇跡以外にはあり得ない。

 主イエスの十字架を考える時に、罪との関連で「救済」の視点からこれ以外に人を救う道はないのだと納得する。しかし同時に何故神の子が「くすぶる灯心」に過ぎない存在をかくまで愛するのかと思うと、釈然としない。釈然としないが神の愛を信じないのではなくて信じている自分がいる。そのあたりは「奇跡」と思う以外にはないのである。
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