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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2013年2月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2013年2月24日 
「信じる心」加藤豊子牧師
マタイによる福音書13章53−58節



 故郷への思いは人それぞれのことでしょう。懐かしく思い起こす人もいれば、あまり帰りたくないと思う人もいるかもしれません。

 主イエスも子ども時代、成人するまで過ごされた故郷、ナザレの町にやって来られました。会堂で教えられる主イエスの話を聞いた人々は驚いた、とあります。非常に驚いてその結果、「人々はイエスにつまずいた」(57節)のです。



 この人は大工の息子ではないか、母親はマリアで兄弟姉妹もここにいるではないか。この人はどこからこのような知識と力を得たのだろうか、と彼らは訝しがりました。そこには、目の前にいる主イエスを自分たちがよく知っている大工の息子としか見ることが出来ない、主イエスの中に神からの力が注がれていることを決して認めようとはしない心があります。この驚きは、新しい信仰の扉を開く機会となることが出来たはずですが、彼らは拒否反応を示し、つまずいたのです。



 「彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受け入れなかった。」(ヨハネ1:11)故郷ナザレの人々だけではなく、多くの人々が主イエスを拒絶しました。自分の考えに捉われて古いものを捨てることが出来ず、神から遣わされたメシア、神の子イエスが入って来られることを拒んだのです。



 主イエスは旧約の預言者たちと同様に苦難の道を歩まれ挫折を経験されました。私たちが挫折を経験する時、挫ける時、主イエスもまたその経験者として私たちに寄り添ってくださることを思います。

 「人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。」(58節)聖書に記されている数々の主イエスの奇跡物語。そこにはひたすらに信じようとして手を伸ばし、一言でもおっしゃってくださいと願い求める人々の姿があります。信じる心のあるところ、現代も私たちは神の働きに出会うことが出来ることを覚えたいと思います。
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 2013年2月10日 
「からし種」加藤豊子牧師
マタイによる福音書13章31−33節



 からし種というのは、「どんな種よりも小さい…」とあるように、ゴマ粒よりも小さな種です。「クロカラシ」と言われる種類の種で、黄色い細長い花が咲き、成長すると確かに人の背丈を遥かに超えて3,4メートルの高さにまで大きくなり、まさに空の鳥が枝にとまれるほどの木になります。小さな種に秘められている成長する力、エネルギーに驚かされます。パン種もごくわずかなものを混ぜることによって、生地全体が柔らかく、大きく膨らみます。からし種の持っている力が外に向かって高く、大きくなる力とするならば、パン種の持っている力というのは、内側に働く力、溶け込むことによって中から全体に大きな影響を与える力と言えるのではないでしょうか。



 主イエスは、天の国はからし種に似ている、またパン種に似ている、と言われました。天の国、と言うと、私たちはそういう特別な場所、空間がどこかにあるように思ってしまいます。天の国とは神の支配されるところを意味し、聖書は、イエス・キリストがこの世に来てくださったということによって神の支配、天の国というものは始まっているのだと語っています。そして、その始まりはからし種のように小さなものだけれども、やがて大きく成長する力を内に秘めているのだと語っているのです。



 パン種は時間をかけて熟成することによって全体に変化を与えます。私たちの心に蒔かれたみ言葉の種も、時間をかけてその人をつくり変えていく働きをするのではないでしょうか。また、キリスト者は社会全体の中でわずかな者たちかもしれません。しかし、そのわずかなパン種のような存在が全体に影響を与える、意味ある働きを担うのではないでしょうか。

 教会も小さな存在に見えるかもしれません、しかし、この地上に天の国を指し示す大切な使命を与えられています。からし種、パン種のような力を持つ神の言葉、福音に生かされていることを覚えたいと思います。
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 2013年2月3日 
「グレーゾーン」加藤誠牧師
マタイによる福音書13章24−30節



 弟子たちに対する後の主イエスご自身の説明にあるように「畑」は世界である。つまりこの世界に悪があり、悪が栄え、貧困や戦争が起きる理由をこのたとえに求めても、あながち間違いとは言えない。しかしそこにこのたとえのポイントがあるようにも思えない。或いは世界を自分の心の中と捉えることも可能であろう。何故なら私たちの心の中には良い麦も毒麦もあるからである。



 先週、久しぶりに妻と映画を見た。レ・ミゼラブルであったが、主人公が、果たして自分が受けた愛に相応しく変われるかを自問するシーンがあり印象に残った。心の中に毒麦が生えている存在としては、このたとえは聞きようによっては極めて恐ろしい。洗礼を受け、長年教会生活を続けておられる方でも、果たして自分が教会に相応しい人間かどうか密かに悩む人もおられるのではないかと思う。



 このたとえのポイントは「主人」がどのような存在であるかである。農業のことは分からないが、僕たちの言うことにも一理あるのではないだろうか。本来あってはならない毒麦を、それと分かった時点で抜き集めるのは自然のように思える。なにしろ「毒麦」なのだから。しかし主人は麦にも毒麦にも時間を与える。共存を許す。



 レ・ミゼラブルの主人公は最後に愛する者に見守られて神の元に帰る。毒麦のような存在が「麦」として神の元に帰るように思えた。神が一人の人間を救おうとされる時間を人は測ることが出来ない。私たちは黒か白の決着のつく世界を望むかも知れない。しかし神の世界は麦も毒麦も生きることを許された、いわばグレーな世界ではないだろうか。しかし、そこにあるのは明らかな神の意志である。罪人の救いのために十字架にまでおかかりになられた主イエスはこの世界の最後の時まで毒麦が「麦」となる事を期待しておられる。
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