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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2013年4月28日 
「エルサレムへ」加藤豊子牧師
マタイによる福音書16章21−28節



 主イエスご自身が、十字架と復活についての予告をしておられます。「必ずエルサレムに行って」という言葉の中に主イエスの固い決意とまた神のご計画の中でその道が与えられていることが示されています。



 「主よ、とんでもないことです。」といさめたペトロに向かって、主イエスは「サタン、引き下がれ。」と厳しい言葉を返されました。勿論ペトロ自身が「サタン」であると言われているわけではありません。

 ペトロの言葉の中に、主イエスがこれから進もうとされる道を脇にそらせようとする、わなのような誘惑を感じ取られたのではないでしょうか。以前、荒野の誘惑に於いても、「退け、サタン」と言われ誘惑を退けられています。飢えの問題を解決し、奇跡を行って人々を引き付ける、あるいは権力で支配するようなメシアとして歩まれたらどうかという誘惑でした。主はそのような輝かしいメシアとして歩まれることをはっきりと拒まれ、十字架への道、苦難のメシアとしての道を歩まれたのです。



 ご自身の歩むべき道をはっきりと示された主は、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と、弟子への道を示されます。自分を捨てる、とは権利の放棄を意味します。それは、自分が主イエスのものとされていることを認めることです。そして自分の十字架を背負うとは、たとえそれが自分にとって痛みを伴うこと損だと思うことであっても、主の為に主を愛するが故に進んでその重荷を担っていくということではないでしょうか。

 「わたしのために命を失う者は、それを得る。」(25節)主イエスに従う道は、自分が手にしているものを失う歩みのように思えます。しかし実はそうではなく、命を見出し、神の豊かな命に生かされて歩むものとされることが約束されています。
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 2013年4月21日 
「この岩の上に」加藤誠牧師
マタイによる福音書16章13−20節



 マタイによる福音書で初めて教会という言葉が出てくる箇所です。つまりここでは「教会」とは何かが主イエスから語られています。

 まず第一に覚えるべきは「わたしの教会」と言われている点です。教会の「あるじ」はイエス・キリストです。時々牧師や信徒の固有名詞を前に付けて「−先生の教会」という表現を聞きます。一般的な意味では間違ってはいないのでしょうが、教会の本質はイエス・キリストが教会の主人でることです。そして、真の主人である主イエスの御心に適う教会を絶えず求めてゆくのが役員会の大切な使命です。



 第二に教会は「この岩の上に」建てられている点です。この岩とは文脈上ペトロと考えるのが自然です。ただしペトロは12弟子を代表する形で主イエスの「あなたがたはわたしを何者だというのか」との質問に答えていますので、「この岩」とは弟子たちを指してるとも考えられます。主イエスの教会には当然ですがイエスをキリストと信じる人が必要です。ただ人が集まれば教会になるのではありません。「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロの告白に対して主イエスは「教会」という言葉を使われたのです。

 旧約聖書では「岩」はしばしば神ご自身を指します。マタイでは「みことば」です。この点も大切です。



 第三に教会は「黄泉の力もこれに対抗できない」ところです。「黄泉の力」とは死の力、罪の力と考えても差し支えないと思います。死に力があるとすれば、そして全ての人が必ず死を迎えることを考えれば、「黄泉の力もこれに対抗できない」との主イエスの言葉は、全ての人に希望を与える言葉です。この約束はキリストの教会に与えられたものです。主イエスの十字架と復活の出来事がこの約束の裏打ちとなっています。
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 2013年4月14日 
「しるしを求めて」加藤豊子牧師
マタイによる福音書16章1−4節



 ファリサイ派とサドカイ派の人々がやってきて、主イエスに「天からのしるしを見せてほしい」と迫っています。しるしを見せてください、とは証拠を示すようにとの要求です。主イエスが神から遣わされたメシアであることがはっきりと分かる証拠を見せろというわけです。日頃は対立しているファリサイ派とサドカイ派が、主イエスという共通の敵を倒すために結託しています。



 あなたたちは「夕焼けだから晴れだ」というように、空模様を見分けることができるのに時代のしるしを見ることが出来ない、と主イエスは答えられました。時代のしるし…それは今ここにメシアがこられ、神の救いの業が始まっているというしるしであります。目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのか、と言われてしまうように、神の教えを良く学び、神に仕える仕事をしているはずなのに、ユダヤの宗教家たちはメシアである主イエスがそこにおられることを受け入れることができません。自分の見方、考え方を変えることが出来ないのです。



 私たちはファリサイ派、サドカイ派の人々だけを批判出来ないのではないでしょうか。私たちは、時代のしるしを見ることが出来る者でしょうか。様々な不安が溢れ、心揺るがせることの多いこの時代の中で、それでも主イエスは生きておられ神の支配がある、ということが出来るでしょうか。私たち一人一人の人生の中にも様々な心揺るがすことが起こり、想定外と言いたくなるような困難に直面させられることがあります。時に私たちは大きな苦しみの前に、つぶやき呻き、嘆くことしかできない者であるかもしれません。それでも、私たちにはヨナのしるし、すなわち主イエス・キリストの十字架と復活の出来事が確かなしるしとして与えられていることを覚えたいと思います。
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