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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2013年5月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2013年5月26日 
「子どものように」加藤豊子牧師
マタイによる福音書18章1−5節



 天の国とは、この世的な序列主義とは無縁のところではないかと思いますが、そこに於いても「誰が一番偉いのか」ということが弟子たちの最大の関心事であったことがわかります。マタイの20章にはヤコブとヨハネの母親が登場し、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」と主イエスに頼んでいます。我が子の出世を願う親心は昔も今も変わらないようです。



 誰が一番偉いのかということに捕らわれている弟子たちに対し、主イエスは子どもを彼らの中に立たせて、「子どものようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」と言われました。子どもは様々な面を私たちに見せてくれます。時にわがままで、意地悪もするし喧嘩もする…子どもは決して天使ではなく、すべてが天の国にふさわしい姿とは言えないことを私たちは知っています。しかし子どもには、権力への強い願望を隠して表には決して出さないというような二面性はあまり見られないのではないでしょうか。その飾らない一途な姿、真っすぐにぶつかり、全面的な信頼を寄せてくる姿は天の国の民にふさわしい姿と言えるのではないでしょうか。



 「このような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」(5節) 子どもは当時、社会の中で弱く小さな、無力で軽んじられることの多い存在でもありました。主イエスはその一番小さな、低くされた無力な子どものところに立ってくださるお方です。そして弟子たちに、私たちにも主イエスと同じところに立つことを願っておられます。教会には天の国を指し示すという役割が与えられています。教会の中に偉い人のような存在が出てきたら、それは天の国の姿から遠ざかってしまうことでしょう。自分を低くして、子どものところに立ち続けてくださった主イエスの姿にならう者でありたいと願います。
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 2013年5月19日 
「つまずかせないように」加藤誠牧師
マタイによる福音書17章24−27節



 イエスが神の子であるならば神殿税を納める必要はない。当然の論理である。神殿税の起源は出エジプト記30章にまで遡ると言われている。銀半シェケルは2日分の賃金である。使用目的は「幕屋のため」とある。面白いことに収入の如何にかかわらず、20歳以上の男子はこの決められた額を支払わねばならない。そして聖書はこれは「命の代償」だという。



 主イエスがガリラヤで行った最後の奇跡は、しかしペトロしか知らない。税の集金人をつまずかせないために主イエスがペトロに指示したのは湖で最初に釣れた魚の口から銀貨が見つかる、というものであった。そして主イエスとペトロ2人分の神殿税を納めるように言われた。



 先週はドイツ、ベルギー、スイスに出張した。ドイツの州教会は神殿税ならぬ教会税で経営が成り立っている。近年言われているのは税収入が激減していることである。通常の礼拝出席が人口の3パーセントであることを考えれば、教会税を選択しない特に若い世代が増えていることも肯ける。



 本来、ペテロの神殿税はペトロ本人が負担すべきである。なぜ主イエスはペトロの分まで用意したのであろうか?神殿税が「命の代償」(出エジプト30:12)であるなら、主イエスの小さな奇跡はペトロの命の代償を主イエスが支払った事を意味すると考えられはしないだろうか。



 今日、教会のいかなる献金も「命の代償」を意味はしない。私たちの命を贖うのは金銭ではなく、ただ主イエスの十字架のみである。そのことを感謝して私たちは自ら献金をささげる。献金は「命の代償」にはなり得ない。しかし、それくらいの感謝をもってささげたいものである。
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 2013年5月12日 
「からし種一粒の信仰」加藤豊子牧師
マタイによる福音書17章14−20節



 山の上で光輝く姿に変わられた主イエス、それは神の栄光、天の国の輝きを表しているようです。主イエスはそこから山の下に降りてこられました。そこで待っていたのは苦しみ、悩み、痛みに満ちた世界、私たちが直面する厳しい現実の世界でした。



 病に苦しむ息子を持つ父親が、主イエスに助けを求めています。このところでは、主が癒してくださったということと共に、それができなかった弟子たちの姿、そして、主が「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」「信仰が薄いからだ」と嘆いておられる姿が示されています。

 「よこしまな」という言葉は真っすぐに行くべきところに行かないという意味だそうです。現代も、素直に神に心を向けることの出来ない時代と言えるかもしれません。神に背を向ける人々だけではなく、弟子たち、そして私たちの心も、真っすぐに神に向かうことに難しさを覚えます。ガリラヤ湖の上で強い風を見て溺れそうになったペトロに、主は「信仰の薄い者よ」と言われました。ペトロと同じく私たちの目には様々なものが映り、うろたえたり疑ったり、少しもぶれないで神のみを真っすぐに見ることができません。



 からし種一粒ほどの信仰があれば、山に命じて移すことも可能であると主は言われました。からし種の内に秘められているエネルギーはものすごいものです。ゴマ粒より小さな種の中から2.3メートルもの木に成長する力が現れるのです。私たちの信仰は小さいとしか言いようのないものかもしれません。しかし神は、驚くべき力をもって私たちに応えてくださこるとのできるお方です。

 様々な障害物がの目の前に立ちはだかり、自分の信仰の小ささ、弱さだけに目を向けてしましやすい私たちです。しかし、山をも移す力をもつ神の力の大きさ、その可能性に目を向け、主に期待して歩む者でありたいと願います。
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