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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2013年6月 2日 9日 16日 23日 30日 目次に戻る
 2013年6月30日 
「天に富を」加藤豊子牧師
マタイによる福音書19章16−30節



 「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすれば良いのでしょうか。」(16節)昔から人々は、この青年と同じように、永遠の命にあこがれそれを追い求めてきました。そして、それを手にするには何か善いことをしなければならないと考えたのです。



 ユダヤの人々にとって、神に義と認められる、受け入れられる道は律法を守ることの中にありました。この青年は、モーセの十戒、また隣人を自分のように愛しなさいという戒めを示された時、「そういうことはみな守ってきました。」と答えています。この言葉を聞くと、何と傲慢な青年なのだろうかと思うかもしれません。しかし、他の福音書を読むと、この青年は恵まれた環境、家庭の中でしっかりと宗教教育を受け、順調に育ってきた模範的青年であったろうと想像できます。マルコによる福音書には「走り寄ってひざまずいて尋ねた。」とあります。その姿からは、傲慢さは感じられず、むしろ真摯に教えを請うているように見られます。そういうことは皆守ってきました、というのは彼の偽りない思いだったのではないでしょうか。小さい頃から戒めの一つ一つを教えられた通りに一生懸命守って生きてきた。でも、何かが足りないように感じているのです。



 主イエスは全財産を売り払って貧しい人々に施すことを求められますが、たくさんの財産を持つこの青年は悲しみながら立ち去りました。何故、こんな厳しい要求をされたのだろうかと思わされます。余りに厳しすぎるのではないかと。一生懸命真面目に善い業を積み重ねるようにして生きてきた彼は、挫折というものを知らない、つまずいたことのない青年であったと言えます。マルコによる福音書を見ると「イエスは彼を見つめ慈しんで言われた。」とあります。主イエスは慈しみの眼差しを持ってこの真面目な青年を見つめ、彼の中にある問題点を見抜いておられました。初めて挫折を経験し、自分の限界、破れというものに気付かされた青年が、幼子のような心で委ねて生きる者となることを、主イエスは願っておられたのでないないでしょうか。
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 2013年6月16日 
「心を一つにして」加藤豊子牧師
マタイによる福音書18章15−20節



 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。」(15節)

 人に忠告をする、ということは、なかなか難しいことだと思わされます。今後の相手との関係や忠告に対する相手の反応を想像すると、私たちはなるべくそのような人との摩擦は避けたいと願うのではないでしょうか。



 ここで問われているのは教会の中でのことです。教会の中で、誰かが罪を犯したならば、先ず二人だけで話をしなさい。聞いてもらえないなら他に1,2人を連れて来て一緒に話をしなさい、それでもだめな場合は教会に申し出なさいと、段階を踏んで忠告をするように勧められています。そこには、できる限り傷を大きくすることなく問題を解決できるようにという、配慮することの大切さが示されています。



 18章を通して語られているのは、小さな一人を大切にしてほしいという主イエスの思いです。少し前のところには一匹の迷い出た羊を探し求める姿、父の御心が語られています。教会の中で、罪を犯したために神から離れようとしている人がいるならば、その人も迷い出た一匹の羊と同じなのではないでしょうか。主イエスはその小さな者が失われることを望んではおられないのです。忠告の勧めの根底にあるのは、一人も滅びることを望まないという主イエスの思いです。



 「二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」(19節)

 小さな一人、失われそうな一人のために、心を一つにして祈るところ、それこそ主イエスの望まれる教会の姿ではないでしょうか。そして、二人または三人が主イエスの名によって集まるところには主ご自身がそこにいてくださると約束されているのです。
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 2013年6月2日 
「父の御心」加藤誠牧師
マタイによる福音書18章10−14節



 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい」 主イエスが教会に語られた言葉である。その前の部分には「つまずき」(スキャンダル=罠)という言葉が多く出てくるので、「軽んじる」ことの方向性が見えます。



 「小さな者」とは18章2節で子供が出てきますから、子どもと考えることが出来ます。しかしマタイの中には主イエスが弟子に向かって「信仰の薄い(小さい)者よ」と語る場面がありますから、一概に年齢のことだけではないように思います。



 12節からは百匹の羊のたとえが語られます。流れを考えると弟子たちが、そして教会が「小さき者」をつまずかせないために語られた話です。この話を聞いた弟子たちは自分を99匹の側に置いたか、果たして一匹の側にその身を置いて聞いたのか興味あるところです。弟子がどう捉えたかは想像でしかありませんが、少なくとも私は自分の身を99匹側に置くことは出来ません。つまり主イエスが出会って下さらなければ決して救われず、これまでの教会生活も主の憐みなくしては成り立ちません。つまり主の前に自らはどこまで行っても「小さな者」でしかあり得ません。



 小さな者を軽んじないためには、自らが主の前に小さな者であることを自覚して歩むことが大切なのではないでしょうか。そしてその小さな者にどんなに大きな主のまなざしが注がれているかを、この聖書の箇所は私たちに教えます。



 先週は香港でWCCに向けての会議がありました。アジアの各国が集まり教会の現状の一部がレポートされました。打ち壊されたり、焼かれたりといった報告も聞きました。それでも小さな私たち、小さな主の教会に注がれる主の御愛を覚えて共に祈ることがゆるされました。
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