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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2013年7月28日 
「子ろばに乗って」加藤豊子牧師
マタイによる福音書21章1−11節



 明るく華やかな主イエス・キリストのエルサレム入場の場面です。群衆はこぞって「ホサナホサナ」と叫び、王を迎えるように主イエスを歓迎しています。しかし、マタイによる福音書を読み進める中で気付かされることは、エルサレム入場を前にして主イエスが三度もご自身の十字架の苦難と復活を予告されていることです。「必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され…」(16:21)と告白された主イエスの苦しみ、悲しみに満ちた心と歓迎する群衆の姿は対照的です。主イエスの心を理解するものは、そこには誰一人いませんでした。



 「柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。」(5節)主イエスは王が乗るのに相応しい馬ではなく、ろばに乗って入場されました。その姿は旧約のゼカリヤ書9章にも記されています。柔和とは、ただおとなしく争いを好まないという意味だけではなく、貧しいと言う意味を持ち、貧しく、低くなられた主イエスの姿を示しています。馬が富と権力の象徴であるならば、ろばは貧しさと謙遜の象徴であると言えます。



 荷を負うろばの子、とありますが、ろばは戦闘には不向きですが約五千年前から家畜として飼われ、かなり重い荷物を運ぶことができます。荷を負う姿…これもわたしたちが自分の力では解決することの出来ない罪の重荷、またわたしたちが直面する様々な苦しみ背負ってくださる主イエスの姿を表していると言えます。



 エルサレム入場の記事は、棕櫚の主日に読まれるだけではなく、教会暦で新年にあたるアドベントの第一主日に読むこともあります。新しい年を迎える時に、わたしたちが主イエスをどのようなお方としてお迎えするのかを覚え、また「主がお入用なのです」(3節)との言葉を心に留めることは大切なのではないでしょうか。
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 2013年7月21日 
「主よ、ダビデの子よ」加藤誠牧師
マタイによる福音書20章29−34節



 「何をしてほしいのか」と主イエスは二人の盲人に問う。彼らは彼らで必死に主イエスの関心を引こうと道端で叫んだ。「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と。彼らにしてみれば千載一遇のチャンスであったに違いない。

 「主よ、目を開けていただきたいのです」。これが彼らの願いであった。盲人であることを考えれば至極当然のストレートな願いである。



 先週、わたしたちは「何が望みか」というゼベダイの二人の息子と母に対する主イエスの言葉を聞いた。「何をしてほしいのか」と同じ内容である。しかし弟子とその母の願いは二人の盲人の願いとはどこか違うように思える。

 先週の宣教師会議の中で、小グループに分かれて祈る時間があった。祈りのリクエストを記したカードを隣の人と交換しその人のために祈る時間もあった。「何をしてほしいのか」と改めて問われた気がした。そしてカードを交換した相手に対して、祈る責任を覚えている。



 弟子とその母、そして二人の盲人の願いに対する主イエスの反応は聖書に明確に示されている。「イエスが深く憐れ」まれたのは二人の盲人であった。私たちが主イエスに祈るその内容は、主の深き憐みに触れるようなものであろうか?

 この話の最後は「盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。」で終わる。その後の消息は不明である。目が開いたなら、したいことは山のようにあったはずである。しかし彼らが選んだのは主イエスに従うことであった。自分の目で見て考え、主体的に主イエスに従うことを選びとったのである。
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 2013年7月14日 
「何を願うのか」加藤豊子牧師
マタイによる福音書20章20−28節



 先週の日曜日は七夕。短冊には様々な願いごとが書かれたことでしょう。ここでは、弟子のヤコブとヨハネの母親が、主イエスに願いごとをしています。「何が望みか」(21 節)と問う主イエスに向かい、この母は、二人の息子が一人はあなたの右に、もう一人はあなたの左に座れますようにと願い出ています。その他の所でも、誰が一番偉いのかということを議論している弟子たちの姿が見られました。ヤコブとヨハネ、その母のみならず、全ての弟子たちの関心は、自分が少しでも良い地位に就きたいということにありました。



 「そのとき」(20節)という言葉で始まっていますが、この母の願いごとがされたのは、主イエスが三度目にご自分の死と復活を予告された直ぐ後のことでした。エルサレムが近づいてくる、いよいよ十字架の苦しみが迫ってくるという中、主イエスは12弟子だけを呼び寄せてエルサレムに向かう思いを打ち明けておられます。身近にいる、信頼を寄せる弟子たちには少しでもこの重荷を分かち合ってほしい…そんな思いもあったのではないでしょうか。しかし、弟子たちの心は、誰が一番偉いのかということでいっぱいだったのです。



 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」(27節)

 主イエスはわたしたちの偉くなりたい、いちばん上になりたいと願う心を否定されません。時には人を傷つけてでも自分が上に行きたいと願う私たち人間の愚かさをご存知です。その上で、仕えられるのではなく、仕える道を歩まれ、ご自分の命をも献げられた姿をわたしたちに示しておられます。

 わたしたちは何を願い、心から望んで生きているでしょうか。「何が望みか」(21 節)、と問いかけておられる主イエスの声を忘れることなく、歩む者でありたいと思います。
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