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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2013年8月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2013年8月25日 
「考え直して」加藤豊子牧師
マタイによる福音書21章28−32節



 兄と弟、二人の息子が父親にぶどう園に行って働くようにと頼まれています。兄は初め「いやです」と断りますが後で考え直して出かけました。弟は逆に「承知しました」と答えましたが結局は出かけませんでした。主イエスは、この二人のうちどちらが父親の望み通りにしたかと問うています。ここで主イエスから問われているのは祭司長や長老たち、すなわちユダヤの指導者たちでした。



 ユダヤの指導者たちは「承知しました」と答えた弟のように、神の命令にいつでもはいと答え、正しく歩んでいるように見えますが、バプテスマのヨハネを通して示された神の義を受け入れることはなく、父なる神の望みに応えることができませんでした。しかし、徴税人や娼婦たちという神に背いているような人々が、最初は「いやです」と答えた兄のように、後で考え直して神の望みに応えるものとされているのです。自分たちこそは神に受け入れられる正しい生き方をしているのだと自負している指導者たちが、実は神の望みから遠く離れた者となっていることが示されています。



 「考え直す」という言葉…ギリシャ語、メタメローマイの言葉の意味は、悔いる、決心を変える、正しい方へ考え直すというものです。わたしたちはなかなか考え直すことの出来ない、頑なな者かもしれません。ユダヤの指導者たちも、地位や経験、プライドなどが邪魔をして、主イエスの新しい教えを受け入れることができませんでした。



 十字架への一週間の歩みの中で、尚もユダヤの指導者たちに悔い改めを呼び掛けておられる主イエスの姿が示されています。私たちもそれぞれの信仰の歩みの中で、考え直すようにとの促しを受けることがあるかもしれません。何が神の望みであるのか、主の声に聴き従う者でありたいと願います。
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 2013年8月18日 
「主イエスの権威」加藤誠牧師
マタイによる福音書21章23−27節



 受難週二日目の出来事である。神殿の境内で主イエスが教えていると、祭司長や民の長老たちが「何の権威でこのようなことをしているのか」と言いがかりをつけてきた。前日に主イエスは境内で彼らの商売の邪魔をしているゆえ、最もな?言いがかりである。

 質問に対して主イエスは質問で応えられた。洗礼者ヨハネの洗礼はどこからのものか?というのが主イエスの質問である。ヨハネに神の権威を認めたくない彼らは、しかし群衆を恐れた結果「分からない」と言って主イエスの質問から逃げた。



 今日の聖書の箇所はここまでである。教会に使える者にとっては都合の悪い話のようにも聞こえる。つまり祭司長や長老たちは、本来人一倍神の権威に服すべきであるにも関わらず、洗礼者ヨハネに神の権威を認めようとはせず、また主イエスにも神の権威を認めず逃げる。そもそも神の権威とは一体何であろうか?そもそも教会は一体何に命をかけているのであろうか?



 洗礼式の行い方は教派によって形式的な違いがあるのかも知れない。しかし本質は聖書の言葉に従い、イエスをキリストと信じる告白を公にした者に対して水が注がれる、或いは水に浸される出来事である。教会は聖書を神の言葉と信じて伝道し、洗礼を授ける。教会こそ聖書の言葉に神の権威を見出してゆかなければならない存在である。

 私たちは主イエスに対して多くの祈りをささげる。あるいは質問をぶつける。しかしこの聖書の箇所が私たちに教える大事なことは、私たちも主イエスから質問されるかも知れないということである。真の権威をどこに見て生きているのかを問われる日が来るかも知れないということである。
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 2013年8月11日 
「実りを願って」加藤豊子牧師
マタイによる福音書21章18−22節



 受難週二日目の早朝の出来事である。マルコはいちじくの季節ではなかった、と注釈しているが、葉だけで実のないいちじくの木に主イエスは今後実がならないようにと願う。そしていちじくの木はたちまち枯れてしまう。

 子どもであったとしても、季節ではない時に実を求めはしない。まして腹を立てて木を枯らすなどとは考えられない。主イエスがこの出来事を通して弟子たちに伝えたかったことは、ご自身の言葉にあるように信仰と祈りである。



 「いちじく」は旧約聖書にもしばしば登場する。「繁栄」「平和」「裁き」と関連付けられて登場する。特にイザヤ書などでは「終末」「裁き」と関連付けられている。つまりこの道端のいちじくの木は単なる木ではなく、エルサレムあるいはユダヤ民族を意味していると考えることが出来る。神の裁きが間近に迫ったエルサレムこそが枯れたいちじくの木が示すものである。



 18節は「朝早く、都に帰る途中」という書き出しで始まる。マタイは受難週の二日目、神の裁きが間近に迫ったエルサレムに、主イエスは帰ろうとされたことを伝える。神の定めた滅びの中へと進む主イエスの姿がここには示されている。「信仰」とはこのことと無関係ではいられない。

 「この山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる。」と主イエスは21節で言われる。キリスト者は神に何でも祈ることが許されている。しかし、少なくても今日の流れの中での祈りとは、主イエスが自ら神の裁きの場に進み出てくださったことを信仰的に受け止めることと無関係ではない。
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