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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2013年9月22日 
「二つの戒め」加藤豊子牧師
マタイによる福音書22章34−40節



 ファリサイ派の人々、サドカイ派の人々という二つのグループがよく登場しますが、彼らはユダヤ社会の宗教的指導者であり、主イエスに敵対する人々でありました。両者は主義主張が異なること等から、日頃は対立していたわけですが、ここでは「一緒に集まった。」(34節)と記されています。それは、主イエスの言葉尻を捉えて罠にかけようと質問したにもかかわらず、かえって主イエスに言い込められてしまったからでした。共通の敵主イエスを倒すために、手を組んでいるファリサイ派とサドカイ派の姿が示されています。



 律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか、と律法の専門家が尋ねました。当時613あったと言われる掟の中で、主イエスが最も重要な第一の掟として示されたのは、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(37節)という戒めでした。申命記6章にも記されているこの掟はシェマ―(聞け)と呼ばれ、朝夕二回唱えるようにと言われているものでした。全身全霊をもって神を愛するようにという教えであり、ユダヤの人々が家庭教育の基盤として大切に受け継いできた戒めでした。

 主イエスはこの第一の戒めと同じように重要であるとして「隣人を自分のように愛しなさい」(39節)と言われ、旧約聖書全体がこの二つの戒めに基いていると語られました。



 神への愛、隣人への愛、この二つは決して切り離して考えることのできないものであることが示されているのではないでしょうか。

 私たちは主イエス・キリストの十字架を通して、神との和解が与えられています。神に赦され、生かされている存在である自分に気付き、そのような自らを受け入れることができたとき、他者のことも神に愛されている大切な存在として受け入れることができるのではないでしょうか。愛の戒めに生きるようにと招かれていることを心に留めたいと思います。
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 2013年9月8日 
「主の招き」加藤豊子牧師
マタイによる福音書22章1−14節



 主イエスが祭司長たち、ユダヤの指導者たちに向けて語られたたとえ話が続きます。ここでは王が王子の為に催した婚宴が出てきます。天の国というものが、父なる神が主イエス・キリストの為に開かれた婚宴にたとえられているのです。あらかじめ招待されていながら、様々な理由で断った人々、それは主イエスを受け入れることができなかったユダヤの指導者たちの姿を示しています。



 「見かけた人は善人も悪人も皆集めてきたので、婚宴は客でいっぱいになった。」(10節) 悪人というのは、当時罪人扱いされていた徴税人や娼婦達、神の恵みからもれていると見なされていたような人々を含んでいました。全ての人を何の差別もなく招いてくださる、天の国の招きがここにあります。



 しかし、せっかく招かれていながら礼服を着ていない人がいました。ここで言う礼服とは、各自が自分で用意するものではなく、実は王が招待者の為に用意してくれるものだったといいます。用意された礼服を受け取らなかった、身に着けようとしなかったという態度が問題になっています。それでは、神が私たちの為に用意してくださる礼服とは何のことでしょうか。



 「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(ガラテヤ3:26) 神は、救いの恵みを私たちに用意してくださっています。それは人間の努力で手に入れることのできないものです。自分の力で罪や汚れを清めて天の国の宴にふさわしい礼服を用意することはできません。それはイエス・キリストを通して、また私たちが信仰の手を伸ばすことによってのみ受け取ることの出来るものです。

 婚宴は喜びに溢れています。キリストを着るものとされた人には、困難な中にあっても喜ぶことのできる、奪われることのない喜びの中に生きる幸いが与えられていることを覚えたいと思います。
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 2013年9月1日 
「目には不思議」加藤誠牧師
マタイによる福音書21章33−46節



 「もう一つのたとえを聞きなさい」で今日の箇所が始まりますが、これは11章の23節からの流れにあることが示されています。つまり神様がこれから神様の権威をもってなさろうとすることが、たとえで語られています。

 「ぶどう園」のたとえが連続しますが、それほどユダヤの人々には分かり易いたとえであったのでしょう。今日のたとえは先週のたとえより「打ち殺す」という表現が示す通り、過激な内容です。神と指導者たちと預言者という点に絞って、これまでのユダヤ人の歴史が語られています。



 今回のたとえでは、祭司長たちやファリサイ派の人々が、自分たちのことが語られていると気づきます。しかし彼らはユダヤの過去の歴史が示す通り、主イエスを殺そうとします。

 その意志に対して主イエスは詩編118編の御言葉を引用し、神がこれから権威をもってなさろうとすることを預言します。「これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」とあります。主イエスの十字架は裁判の結果でした。主イエスは捨てられた「石」です。しかし、主イエスの十字架の本質は神の意志にあります。つまり人の罪を赦し、人を救うために神は独り子イエスを十字架にかけて命を犠牲にされました。



 「わたしたちの目には不思議に見える」と詩編で歌われていますが、主イエスの十字架の出来事ほど不思議なことはありません。それほどまでして救う価値が人にあるのだろうか?自分にはその価値があるのだろうか?と思うからです。
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