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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2013年11月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2013年11月17日 
「思いがけない時に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書24章36−44節



 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(36節)

 思いがけない時に、すなわちノアの時のように、主イエスは来られるのだ、と語れています。神様の命を受けて、ノアはとてつもない大きさの箱舟を作り始めました。人々はそれを見ていたはずです。しかし、ノアが箱舟入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていて、洪水が襲ってくるまで何も気がつかなかったとあります。当たり前のようにこれからも続くだろうと思っていた日常生活というものが、突然断ち切られてしまったわけです。



 その後には、いつ押し入るのかわからない泥棒のように、主の日が訪れることが示されています。「主の日は盗人のようにやってきます。」(ペトロ二 3:10)

 主イエスは、だから目を覚ましていなさい、用意していなさい、人の子は思いがけない時に来るのだからとわたしたちに繰り返し、呼びかけておられます。目を覚ましている、用意している生き方とは、どのようなものなのでしょうか。

 45節以下に記されているのは、幸いな僕の姿です。それは、主人に託された仕事を忠実に果たしている僕の姿です。また主人はその僕に全財産の管理を任せられるだろうとあります。



 神様が、今、ここで、わたしたちに託しておられることに目を向け、それぞれに与えられた役割を果たしていくことが求められているのではないでしょうか。目を覚ましていなければ、わたしたちの心は様々な欲に振り回されてしまいます。わたしたち一人一人が、神から託されているものの、良き管理者として歩むようにと招かれていることを覚えたいと思います。
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 2013年11月3日 
「最後まで耐え忍ぶ者」加藤豊子牧師
マタイによる福音書24章1−14節



 弟子たちが、イエスに神殿の建物を指さした、とありますが、その建物とはヘロデ大王が40年の月日をかけて改築した壮麗なエルサレム神殿でした。この神殿の大理石の美しさは数キロ離れた所からも見えたと言われます。しかし主イエスは、一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない、と言われ、神殿の崩壊を予言されます。イスラエルの人々の信仰の拠り所でもあり、また40年もかけて建てられた立派な輝くようなエルサレム神殿が崩れ落ちてしまうなど、弟子たちには全く受け入れられない、信じられないことだったと思われます。不安に襲われた弟子たちは主イエスに、そのことはいつ起きるのか、またあなたが来られ世の終わるときにはどんな徴があるのかと尋ねます。



 終末ブームという言葉がありますが、世の終わり、終末というと私たちは破滅の時を想像するのではないでしょうか。しかしここで示されていることは、世の終わりとは主イエスが再び来られる日のことであり、そこに希望が与えられているということです。



 主イエスは私たちに、最後まで耐え忍ぶ者であるようにと勧めます。最後までとは途切れることなくという意味があります。途切れることなく信仰を持ち続けるように、信仰告白に記されているように愛のわざに励みつつ主を待ち望むことが求められています。



 今日は聖徒の日・召天者記念礼拝です。シロアム教会縁の方々の写真が並べられている中で、共に礼拝をささげています。戦後の廃墟の中から希望を見失うことなく信仰をもって立ち上がった方々がおられ、その信仰の歩みが途切れることなく受け継がれて今日を迎えていることを覚えたいと思います。
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