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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2014年1月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2014年1月26日 
「赦しの限界」加藤誠牧師
マタイによる福音書26章31−35,69−75節



 主の十字架が間近に迫り、弟子たちの結束にもひびが入る。過ぎ越しの食事の席ではユダの裏切りが、その名前は明かされないまま示される。今日の箇所ではペテロの生涯の恥辱とも言える行為が主ご自身によって預言される。しかし聖書を読めばペテロ一人の気持ちではなく、死を賭して主に従う決意は全員が持っていたのである。



 ペトロの決意の前に主イエスは不思議な言葉を語られた。「わたしは羊飼いを打つ。すると羊の群れは散ってしまう」という旧約聖書の言葉である。問題は「わたし」が神であることである。神が神の羊飼いを打つことが預言されている。事実26章56節には「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」と記されている。



 十字架刑は当時の処刑方法であるが、主イエスの十字架のみは内容において意味合いが全く違う。主イエスが背負ったのは自らの罪ではなく世の人の罪であった。そしてそれはただ独り主イエスのみが成し得る救いの出来事であった。



 主イエスは「わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」との約束の言葉をペトロたちに与えられた。ペトロたちと言ったのは、ユダはこの約束を聞いていない。ヨハネによる福音書によれば彼は過越しの食事ののち一人で夜の闇に消える。



 ユダの悲劇はこの主イエスの約束の言葉を聞くことが出来なかったことにもよるのではないだろうか?マタイ26章の69節からは、いかにペトロが主イエスを否認したかが記されている。三回目などは「呪い」の言葉を口にして否認しているのである。主の十字架を前にして、恐れと後悔の中からペトロたちを立ち上がらせたのは、紛れもなくこの主の約束の言葉だったのではないだろうか。
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 2014年1月19日 
「過越の食事」加藤豊子牧師
マタイによる福音書26章17−30節



 主イエスは十字架にかかられる前日、弟子たちと一緒に過越の食事をされました。過越祭はユダヤの人々が最も大切にしている祭りで、今日でも殆どのユダヤ家庭において祝われています。その食卓には種入れぬパンや苦菜、子羊の肉などが並びますが、その起源は出エジプト記12章の過越しの出来事に遡ります。

 主イエスは食事の席でパンを裂き、杯を取り次のように言われました、「取って食べなさい。これはわたしの体である。」「皆この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」



 出エジプトの物語の中で、犠牲の子羊が屠られ、その血が家の入口の柱に塗られました。それは災いがイスラエルの家を通り過ぎるための目印とするためでした。イスラエルの民の救いのために子羊が犠牲として屠られたように、主イエス・キリストはすべての人を罪から救うために犠牲となり、その命をささげられました。主イエスによって成し遂げられた神の救いの業がここに示されています。



 あなたがたの内の一人がわたしを裏切ろうとしている、と主は驚くような言葉を投げかけます。裏切ろうとしていたユダは、まさかわたしのことでは、と答えます。なぜ、主イエスの十字架の出来事の中でユダの裏切りが語られるのか、神の全能の力でユダの心を変えることができなかったのか。その計画を止めることはできなかったのか。



 人は神から自由意志を与えられた存在であり、神はその意志を力づくで変えることはなさりません。しかし、主は最後までユダに対し、何とか思いとどまらせようと働きかけられたのではないでしょうか。わたしのことでは、と動揺したのはユダだけではありませんでした。わたしたちの抱えるすべての罪と弱さを背負って、主が十字架にかかってくださったことを覚えたいと思います。
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 2014年1月12日 
「香油を注いで」加藤豊子牧師
マタイによる福音書26章6−13節



 26章の初めには主イエスご自身が十字架について告知される場面があり、いよいよここから受難物語が始まります。そのすぐ後に記されているのが、一人の女が主イエスの頭に香油を注ぎかけたという出来事です。



 極めて高価な香油、とありますがマルコやヨハネの記事によると、純粋で非常に高価なナルドの香油とより詳しく書かれています。混じりものが入っていない、純粋で貴重な香油、そのすべてを彼女は主イエスに注ぎかけました。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。」と弟子たちは憤慨します。マルコの記事には、「300デナリオン以上に売って貧しい人々に施すことができたのに。」とそこにいた人々から厳しく咎められたとあります。1デナリオンは一日の賃金に相当するので、一日5千円としても150万円以上になります。何故このようなことをしたのか、その動機はわかりません。しかし、主イエスはこの女性の行為を「わたしに良いことをしてくれたのだ。」と評価されました。良いこと、とは美しいこと表現することのできる言葉です。



 この香油を注いだ女性の話しの前後に出てくるのは、イエスを捉えて殺そうと計略を用いて相談している祭司長達の姿であり、またイエスを引き渡そうと機会を狙っている弟子、ユダの姿です。計略をねり、企て、機会を狙うという人間の闇の中での動きに対し、この女性の主イエスに対する行為とその心は、何と純粋で美しいものだったことでしょう。そして香油を注ぐとは死者を葬るための行為でもあり、十字架を目前に控えた主イエスに最も相応しい行いでもありました。



 曲がった邪悪な時代、様々な悪意がうごめくこの世にわたしたちも身を置いています。そこにおいてわたしたちが主にささげる行為と心が、主に喜ばれる美しいものであることを願います。
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 2014年1月5日 
「小さな者の一人へ」加藤誠牧師
マタイによる福音書25章31−45節



 いよいよ十字架の時が迫る中、主イエスは弟子たちに神の裁きの時があることを告げる。人の想像を遥かに超える神の裁きの出来事であるが、主イエスの語られた右と左に分けられる基準は、ある意味極めて私たちの日常に関連する。つまりここでは神が人の価値をどこに置いているかが語られていると解釈しても良いと思う。



 私たちは人の価値をどこに見るのだろうか?家柄であろうか?それが物を言う職場もあるであろう。学歴であろうか?社会での業績であろうか?

 神の基準は明確である。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」

 これは何よりも弟子たちに対する励ましと慰めではないだろうか。



 主イエスの十字架と復活後、弟子たちは大胆に主イエスの福音を述べ伝えたことが使徒言行録に記されているが、同時に迫害の事も記されている。否今日も主イエスの教会に対する迫害がどんなに厳しいものであるかは、アジアや中東のキリスト者の声を聴けば分かる。日本においても福音を伝えることの困難さを教会も個人も感じている。そのような私たちにこの言葉や勇気を与える。「小さい者の一人」が弟子を意味するなら、これは彼らにとって神の救いの広さを勇気づける言葉ではないだろうか。



 同時にこの言葉はキリスト者に良い意味での緊張を与える。もし私たちが「最も小さい者」に対する目と手を失っているとしたら、私たちは悲しい存在であろう。

 もし神の手元に私たちの履歴書があるとするならば、そこには何が記されているのであろうか。小さな良いことが記されているに違いない。
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