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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2014年2月23日 
「主の助けによって」齋藤朗子伝道師
コリントの信徒への手紙二4章7−15節



 パウロの時代、コリントは商業、貿易で大変栄えておりましたが、同時に風紀の乱れた都市であったといいます。この大都市で見出したコリントの信徒たちこそ、死と隣り合わせのパウロの宣教活動の報いでした。そして、彼らを救われたイエス・キリストこそ我々の宝であるとパウロは語ります。



 この手紙を書くまでの間、パウロはいくつもの問題を抱えていました。パウロがいない間、コリント教会には誤った福音を語る者、教会に分裂を引き起こす者が現れ、また、パウロのことを誹謗中傷する人たちが現れました。それゆえパウロは不安と恐れの中にあり、生きる希望を失っていました。しかし、歪められた福音、教会分裂の危機、誤解や中傷という苦悩を味わったパウロも、最後には一致と和解の喜びを経験したことが、この手紙には記されています。



 誤解や中傷という苦悩については、わたしたちもパウロのような経験をする時があるかもしれません。このような問題は精神をすり減らし、恐れと不安に陥れ、希望を失わせるものです。しかしパウロは、キリストという宝をいただいているわたしたちは、「何があっても行き詰らない、失望しない、主は決してわたしたちを見捨てない、打ち倒されても死んだりはしない」と語りました。必ず主なる神が苦しい状況に希望へ、明るいほうへ、和解のほうへと道を開いてくださるのです。パウロはこのことを、生きる希望を失うほどの苦悩を通して確信しました。

 弱り果てた、脆い「土の器」であるわたしたちの中に脈打っているキリストの命こそが、わたしたちの宝であり、この宝が与えられているから、わたしたちは、「四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」のです。



 私たちは、キリストという宝を信じ、キリストの助けを信じつつ、どのような状況下でも希望を持ち続けましょう。そしてパウロが「わたしは信じた、それで、わたしは語った」と言ったように、私たちも確信をもってキリストを伝える者とならせていただきたいと願います。
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 2014年2月16日 
「もう一人の放蕩息子」加藤誠牧師
ルカによる福音書16章1−14節



 このたとえ話はこの部分だけを見ていると、訳が分からなくなるたとえ話です。少し穿った見方をすれば、そこがルカの狙いどころでもあります。

 このお話は実は15章1節からスタートする一連の話のクライマックスに位置します。この話を主イエスがなさっている時、主イエスの周辺には3種類の人たちがいました。徴税人、罪人と聖書が呼ぶ人たち、ファリサイ派の人たちと、律法学者たち、そして弟子たちです。つまり一匹の羊、一枚の銀貨、弟は徴税人、罪人を指しています。そして放蕩息子の兄はファリサイ派の人たちと律法学者を指しています。このたとえ話を通して主イエスは何を伝えたいのでしょうか?

 それは明確です。15章7節に「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しいひとについてよりも大きな喜びが天にある」これが16章の「不正な管理人」にまで貫くいわば背骨です。



 16章1節には「弟子たちにも次のように言われた」とあります。弟子たちの中に「不正な管理人」がいる、と言われたも同然です。しかし主イエスは彼を名指ししませんでした。その代わりにこの訳の分からない、論理的にも倫理的にも飛躍と矛盾をはらむたとえを続けられたのです。果たして聞いていた徴税人、罪人、ファリサイ派の人たち、律法学者、弟子たちが理解できたのでしょうか?



 14節には「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」とあります。主イエスのたとえ話はあざ笑いの対象でしかありませんでした。そしてこのあざ笑いは主の十字架へと続きます。たった一人の罪人を救うために全世界からあざ笑われることを主イエスは選ばれました。そのことを示すのがこのたとえ話です。
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 2014年2月9日 
「剣を取る者は」加藤豊子牧師
マタイによる福音書26章47−56節



 ユダは、「先生、こんばんは」という、日常の何気ない挨拶をもって主イエスを裏切りました。寝食を共にしてきた主イエスと弟子たちとの間には、家族のような強い絆、結びつきがあったことでしょう。弟子たち一人一人をどんなに大切に思っていたことでしょうか。しかし、ユダだけではなく、他の弟子たちも皆逃げ去って行きました。親しい、一番身近にいる者から見捨てられるという悲しみ、大きな心の痛みを主イエスは味わわれました。



 「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(52節)主イエスは、ご自分に与えられた使命を果たすために、剣、力を用いることはなさいませんでした。預言者によって語られ、長い間待ち望まれてきた救い主、メシアは、力づくで救いの道を実現しようとはなさりません。人に捨てられ、嘲られるという苦難の道を歩み、十字架に架かりご自分の命を与えてくださいました。剣に対して剣をもって応えることはなさらず、赦しと愛をもって応えてくださったのです。



 近づいてきたユダに「友よ、しようとしていることをするがよい」と主は答えられました。口語訳では「友よ、何のために来たのか」とあります。訳すのが難しい言葉だそうです。ある注解書には「なぜ、あなたはここにいるのか」でも良いかもしれないとありました。

 過越しの食事の席から一人、夜の暗闇の中へと消えて行ったユダ。夜はユダの心の闇を表し、また闇の力の支配を示しているようです。それでも、主は最後まで「友よ、なぜあなたはここにいるのか」と呼びかけられました。遠く離れてしまったユダに、最後まで「友よ」と呼びかけてくださった主は、主のみこころを悲しませてしまうことの多い、弱い私たちものことも、「友よ」と呼んでくださいます。私たちはその憐みによって生かされている者なのです。
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