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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2014年3月30日 
「強いられた十字架」加藤誠牧師
マタイによる福音書27章32−44節



 キレネ人シモンの記事はマルコとルカも記録している。マルコなどはアレクサンドルとルフォスの父でシモン、とわざわざ息子たちの名前まで記している。初代教会では彼らの名前が良く知られていたのであろう。キレネとはアフリカ最北端にあった町である。彼がこの時期にエルサレムいた理由は主に二つ考えられる。ユダヤ教に帰依し巡礼に来たか、出稼ぎに来ていたかである。どちらにせよシモンにしてみれば、迷惑千万な話であった。ローマ兵から強制的に十字架の横木を担がされたからである。恐らく主イエスには横木を担ぐだけの体力が残っていなかった。



 十字架につけられる前には、痛みを和らげるためであろう没薬をまぜたブドウ酒が飲まされたようであるが、主イエスはそれを拒否された。痛みのすべてを、罪のすべてをその身に引き受けられるためである。

 想像を絶する痛みに加え、通行人、祭司長や律法学者たち、さらには左右に同じ十字架刑に処せられた罪人からもののしりがあったことをマタイは伝える。「自分を救え」「十字架から降りろ」という声は、主イエスにとっては罵りよりは最後の誘惑ではなかったのではないだろうか。



 聖書はその後のキレネ人シモンについて語らない。ただ使徒言行録等に息子と思しき人物の名前があがる。どのようにシモンが主イエスを信じたのかは不明であるが、十字架の最も近くに彼はいたのではないだろうか?横木を担がされた人間として、ひょっとすると他人ごとではなく主イエスの十字架を、その痛みを苦しみを見ていたのではないだろうか。

 主イエスの十字架を自分の事として捉えることにこそキリスト教の中心がある。
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 2014年3月23日 
「子羊のように」加藤豊子牧師
マタイによる福音書27章27−31節



 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」

 私たちは、毎週の礼拝の中で使徒信条を告白しますが、そこに記されている苦しみとは、主イエス・キリストが、身体と精神の両方に受けられた苦しみでありました。鞭打たれるという身体的な苦痛を味わわれた後、主イエスはピラトの官邸に連れて行かれ、ローマ兵達に囲まれました。カイサリアから連れて来られた兵士たちの殆どは、この裁判について、また主イエス・キリストがどのようなお方なのか、詳しいことは何も知らない人々でした。



 彼らは自分たちの外套を主イエスに着せ、茨の冠をかぶせ、手には葦の棒を持たせて、王様の格好をさせました。そして、膝まづいてユダヤ人の王万歳と言って侮辱したのです。主イエスをからかい、楽しんだ挙句さらに暴行を加えています。残酷ないじめのような場面です。ここにも私たち人間の抱えている愚かさ、罪深さがあらわにされているのではないでしょうか。



 「屠り場にひかれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:7)

 イザヤ書53章に語られている小羊のように、主イエスの沈黙が続きます。主は弱り果てて口が開けなかったのではありません。そこに示されているのは神の御心に従う姿です。ゲッセマネの園で、悲しみもだえながら「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と祈られた主イエスは、立て、さあ行こうと立ち上がられました。その心は揺らぐことなく、神の御心に従うため十字架への道を歩んで行かれました。その受けられたすべての苦しみが、私たちの代わりに受けてくださったものであることを覚えつつ、受難節の時を過ごしたいと願います。
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 2014年3月16日 
「十字架への道」加藤豊子牧師
マタイによる福音書27章15−26節



 「人々がイエスを引き渡しのは、ねたみのためだと分かっていたからである。」(18節)

 総督ピラトの目から見て、主イエスが死刑に当たるような罪を犯していないことは明らかでした。それがねたみのためであることを、ピラトは見抜いていました。彼は、何とか死刑を免れさせようと努力しますが、「十字架につけろ」という群衆の声に押されて死刑の判決を下してしまいます。ローマ帝国の属国であるユダヤの総督、ピラトにとって、一番避けたいのは自分の足元で暴動が起こることでした。何故ならそのことは彼が今手にしている総督という地位を危うくするものだからです。自己保身のために、ピラトは良心に背き、主イエスを引き渡したのです。



 自分たちこそが、一番尊敬を受けるべき指導者であると自負していた祭司長たちにとって、主イエスの存在は受け入れられるものではありませんでした。人間のねたみという感情が、相手の存在を否定し、さらには存在そのものを消してしまおうという恐ろしい行動にまで結びついてしまうことを、祭司長たちの姿から思わされます。

 一週間前にはホサナと叫んで主イエスのエルサレム入場をこぞって歓迎した群衆は「十字架につけろ」と激しく叫び続ける人々となっています。煽られればどちらへでも方向を変えてしまう、無責任な人々の姿がそこにあります。



 主イエスご自身が一言も発言なさらない中、ピラト、祭司長たち、群衆の姿を通して私たち人間の持つ弱さと罪があらわにされている場面です。 ピラトは「わたしには責任がない」といって手を洗ってみせましたが、主イエスの十字架を前にして「責任がない」と言える人は誰一人いないことを思わされます。
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