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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2014年4月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2014年4月27日 
「あなたがたと共に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書28章16−20節



 「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。」(16節) ガリラヤには主イエスが育たれたナザレの町があり、弟子たちにとっても故郷でありました。そしてここガリラヤは、主イエスの宣教活動のスタート地点でもあります。



 弟子たちは非常に重い心を抱え、戸惑いを覚えながら故郷ガリラヤに戻ってきたと思われます。主イエスの十字架の死、ガリラヤで会うという婦人たちから聞いた伝言、とても受け止めきれない出来事に直面し、また主イエスを見捨てて逃げてしまったという後ろめたい気持ち、挫折感を味わっていたことでしょう。



 そんな弟子たちに、主イエスは山に登るようにと指示されました。聖書に於いて山に登るという場面は、神との出会いの場としてしばしば用いられます。モーセが神に出会い、出エジプトの指導者としての使命を与えられたのも、神の山ホレブでのことでした。



 自信を失い、傷つき、うつむいている弟子たちを主イエスは山に招き、近寄って声をかけられました。その言葉は、どうして逃げてしまったのか、と言うような弟子たちを責め、問い詰めるものではなく、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」という新しい使命を与える言葉でありました。主イエスは、自分の弱さ、限界、罪深さを知らされた者を赦し、新しく立たせてくださることのできるお方であります。



 「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(20節)いつも、とはすべての日々に於いてという意味です。この約束の言葉と共に、宣教命令が私たちにも与えられています。
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 2014年4月20日 
「あの方は墓にはおられない」加藤誠牧師
マタイによる福音書28章1−10節



 主イエスが十字架から三日目に復活することを信じていた弟子たちは一人もいなかった。むしろ信じてはいないが、祭司長やファリサイ派の人々のほうが「三日後」を意識して番兵に見張らせていた。二人の婦人が墓に行った理由はマルコ16章に記されている。



 天使に会う機会は、聖書においても特別な時であり、新約では特に「恐れることはない」という言葉が人に対してかけられている。「あの方は、ここにはおられない。・・・復活なさったのだ。」という天使のメッセージこそ、今朝私たちが聞かなければならないメッセージである。主イエスが死人の初穂として復活なさったという聖書の言葉は、私たちに対しても「墓」が人生の終着駅ではないことを告げる。



 婦人たちには弟子たちに伝えるべきメッセージが託される。そして弟子たちに会いに行く道の途中で復活の主イエスに出会う。なぜ主イエスは婦人たちに出会われたのだろう?主イエスが出会わなくても、婦人たちは主の復活を信じて託されたメッセージを弟子たちに伝えたであろう。



 主の復活のメッセージは、最も大切な事として教会が語り続けてきた。復活のメッセージは人から人に伝えられるべきものである。復活を信じて弟子たちに伝えようとした婦人たちに主イエスが現われて下さったという事は、このメッセージを信じて伝えようとする人にも主イエスはその生活の中で現われて下さるのではないだろうか?

 日常生活の中で、神様が働いてくださったとしか思えないような経験をすることがないとは言えないのである。
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 2014年4月13日 
「墓の中に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書27章57−66節



 主イエスがアリマタヤのヨセフによって丁寧に埋葬された様子が記されています。時は金曜日の夕方。日没から安息日が始まることを考えると、埋葬するために残された時間があまりないという大変切羽詰まった状況でした。



 このヨセフという人物は、マタイによれば「金持ち」とありますが、他の福音書を見るとユダヤの最高法院の議員の一人であり、主イエスが死刑の判決を受けた時には同意しなかったこと、また主イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れてそのことを隠していたことがわかります。

 ヨセフの身分、置かれている立場を考えると、ピラトに主イエスの遺体の引き取りを願い出るということは、相当な勇気がいることだったと思われます。またそれは、弟子たちが散り散りに逃げていく中、議員であるヨセフだからこそできたことでもありました。



 きれいな布に包み、新しい墓へ、主イエスの遺体は丁寧に葬られました。丁寧に葬られたという埋葬の出来事は、やがて与えられる復活という神の栄光の業がすでにそこに始まっていることを示しているのではないでしょうか。



 二人のマリアは墓の方を向いて座っていたとあります。マリアたちと墓の中の主イエスを隔てている大きな石は、生きている者と死んだ者を隔てる石のようです。彼女たちは、主イエスは死んでしまった、もうどうすることもできない、と絶望し悲しみに暮れています。しかし、その石の向こう側では、復活という神の業が始まろうとしているのです。



 死という問題だけではなく、わたしたちは時に行き詰まり、何もできないという状況に立たされます。目の前に立ちはだかる石の前では、ただ立ち尽くすしかない。しかし、その石の向こう側で実は神が働いておられるということがあるのではないでしょうか。キリスト者は、どのような状況の中でも、その先に希望が、光があることを信じて生きるようにと招かれています。
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 2014年4月6日 
「神の子のしるし」加藤誠牧師
マタイによる福音書27章45−56節



 マタイは主イエスが十字架上で残された7つの言葉のうち一つだけを私たちに伝える。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」である。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。その言葉に先立ち、マタイは昼の12時から3時間全地が暗くなったことを伝える。マタイはなぜこの言葉を私たちに伝えたかったのであろう?



 マタイがそして聖書全体が私たちに伝えたい主イエスの十字架のメッセージは、マタイで言えば「本当に、この人は神の子だった」という言葉に集約されるであろう。そしてマタイの特徴はそれを終末の出来事と重ねてそれを私たちに伝えることにある。



 主イエスの叫びを聞いた人たちの中で、「エリヤを呼んでいる」と勘違いした人のいたことが記されている。「エリ」を「エリヤ」と聞き違えたのであろうが、マラキ書3章23節の終末の記述にエリヤの名が記されている事とも関連付けられる。さらにマタイは主イエスの最後の叫びの後、神殿の垂れ幕が裂け、墓が開いて多くの聖なる者が生き返ったことを記す。主イエスの十字架の出来事は死から命へ働く力があることを明確に打ち出すのである。



 世の終末ということについて、私たちは中々実感が湧かない。しかし個人の終末については、意識しない人はいないのではないだろうか?もちろん主イエスが言われたように、私たちは思い悩んでも寿命をわずかでも伸ばすことが出来ない。しかし覚えておかなくてはならないことは、主イエスはこの世の終末においても「主」であられるのと同様、私たち個人の終末においても「主」であられるということである。死者を生き返らせる力を持った「主」であることを覚えたい。
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