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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2014年5月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2014年5月25日 
「恵みの中で」加藤豊子牧師
フィリピの信徒への手紙1章3−11節



 「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、…」(3節)

 挨拶の後にパウロが述べているのは、神への感謝です。牢獄の中にあってもフィリピの教会の人々のことを思い起こし、彼らが今日に至るまで「福音にあずかっている」ことを感謝しています。あずかる(コイノニア)という言葉は、共有する、協力者、共に参加するという意味があります。パウロを経済的に、あらゆる面で支援したフィリピの信徒たちは、まさにパウロの協力者でありました。しかしそれ以上に、フィリピに留まって信仰を保ち続け、教会を支え、様々な圧力を受けながらも伝道に励んだ彼らは、福音のために苦しみを共にするパウロの仲間、同労者でありました。



 囚われの身であるパウロは、フィリピの信徒たちに直接会って聖書の言葉を教えたり、指導することができません。いつ会えるかわからない状況です。しかし、彼らの中に善い業を始められた方、すなわち信仰を与えてくださった神ご自身が、その歩みを導いてくださると、信徒一人一人の信仰の成長を神に委ねています。



 パウロはフィリピの信徒達のために、次のように祈っています。「知る力と見抜く力とを身につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」(9節)

 愛において豊かになるためには、神を知る深い知識と鋭い感覚が必要だと示されています。私たちは時に個人の生活の中で、教会の歩みの中で、一番大切なことを後回しにし、本質的でないことで振り回されたりすることがあります。何が一番大切なこと、神の求められておられることなのか、わきまえ知る者であるようにというパウロの勧めは、今日の私たちに向けても語られている言葉として受け止めたいと思います。
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 2014年5月18日 
「キリストに結ばれている者」加藤豊子牧師
フィリピの信徒への手紙1章1−2節



 フィリピの信徒とパウロの出会いは、使徒言行録16章に記されています。第2回伝道旅行に於いてパウロは、ギリシャ地方へ渡ります。そこで最初に訪れたフィリピで、リディアという女性とその家族が洗礼を受け、それがフィリピの教会の基礎となります。

 伝道旅行を続けるパウロは2年3ヶ月以上同じ所に留まることができませんでした。パウロは手紙を通して、伝道・牧会をしたと言えます。パウロは獄中で囚われの身でありながら、フィリピの信徒宛てに喜びにあふれた手紙を書きました。



 1.2節は挨拶の部分ですが、パウロは自分のことを短く「キリスト・イエスの僕である」と紹介しています。当時パウロの使徒職に対して疑いがかけられていたため、他の手紙では、自分が使徒であることを長々と説明したりしていますが、ここでは大変短い自己紹介がされています。フィリピの信徒に対する、この短い自己紹介は、パウロとフィリピの信徒がいかに親しい、信頼し合える関係であったかを示しています。パウロにとってフィリピの信徒は同労者であり、喜び、苦しみを分かち合えるパートナーでありました。



 自分はキリストの奴隷である、とパウロは言います。僕とは奴隷(ドゥーロス)と言う言葉です。奴隷というと、自由のない、主人の言われた通りのことをする、人間らしく生きられない…そんなイメージを持ちます。しかしパウロは喜んで、誇らしげに自分はキリスト・イエスの奴隷であると言っています。キリスト・イエスの僕であるということは、言葉を変えて言うならば、主イエスを自分の人生の主人、心の中心にいてくださるお方として迎えることです。



 ハイデルベルクの信仰問答には、私が身も魂も、生きている時も死ぬ時も私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものであることが、ただ一つの慰めであることが記されています。主イエスの僕、主イエスのものとして歩む時、実はそこに真の慰め、喜びが約束されていることを覚えます。
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