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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2014年8月31日 
「神の秘められた計画」加藤誠牧師
コロサイの信徒への手紙2章1−5節



 キリスト教を信仰的に正しく理解するためには、主イエス・キリストが何故この世に来られたのか?そして神は弟子たちに命じて世界に教会をたてようとしたのかを知る必要がある。私たちにとってみれば、2000年に及ぶ教会の歴史が手助けになる。多くの書物に学ぶことが出来る。教会を大切にして生きた多くの人の証を読むことが出来る。信じる信じないは別にして、イエス・キリストという存在は世界で知られている。



 コロサイとラオデキアは20キロほどしか離れていなかったそうである。パウロが直接彼らに伝道した訳ではないが、教会はその歴史を刻み始めたばかりであり、イエス・キリストの名を知る人など教会以外ではいなかったはずである。「巧みな議論」(4節)を用いる人たちによって教会が健全な信仰を失う危険をパウロは承知していた。実は現代でも同じ危険があるのであるが。



 「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」とパウロは大胆に言う。人に内に隠れているのではない。何かの秘密文書の中に隠れているのではない。教会の交わりの中で心を励まされ、キリストを中心とした愛によって結び合わされることにより、私たちは主イエス・キリストを悟るようになるのです。



 先週は札幌で台湾基督長老教会と日本基督教団との協議会が開催されました。協議会ですから現実的な解決困難と思えるような問題も忌憚なく話し合いました。東日本大震災以降、台湾基督長老教会からの献金は一億円近くになります。今夏も仙台のエマオに100人のボランティアを送っていただきました。キリストの「愛によって結び合わされ」いることを実践されているのだと思います。どれだけ教団はこの主の愛に応えることが出来るのだろうかと思わされました。
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 2014年8月24日 
「内に働く力」加藤豊子牧師
コロサイの信徒への手紙1章24−29節



 「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、…」(24節)

 苦しみにも様々なものがありますが、私たちにとって苦しみと喜びは、あまり結びつかないものではないでしょうか。しかし、パウロは苦しむことを喜びとしていると語ります。パウロの苦しみ、それは教会のため、また信徒たちのための苦しみでした。様々な問題を抱えるコロサイの教会のことを心配し、苦しみを覚えるほどに心を砕いて祈り手紙を書いているパウロにとって、教会に仕え、苦しむことは喜びであると語られています。



 さらに「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たしています。」とあります。キリストがその生涯の中で味わわれた様々な苦しみ、何よりも十字架の上の苦しみに、人の業によって補われなければならないような足りないところ、欠けたところなど、あるはずもありません。パウロはキリストと一つになること、その姿に倣って歩むことを求めていました。教会のために苦しむということを通して、身をもってキリストの苦しみを味わう者とさせていただきたいという思いが、そこにあらわれているように思います。



 秘められた計画の秘められたという言葉は、ギリシャ語でミュステーリオン、英語ではミステリーと訳される言葉です。口語訳聖書では奥義という言葉が用いられています。イエス・キリストを通して、特定の人達だけではなく全ての人が救いに招かれるという神の救いのご計画は、まさに神の神秘、奥義とも言える計画であり、そのことが今や明らかにされたと語られています。



 「わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。」(29)パウロは自分の弱さを良く知っていた人であり、また同時に自分の内に働くキリストの力を知り、そこにのみ信頼を置き続けることによって闘うことができたのではないでしょうか。
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 2014年8月10日 
「信仰と愛」加藤豊子牧師
コロサイの信徒への手紙1章1−8節



 コロサイは、アジア州、現在のトルコ内陸部にある小さな町でした。使徒言行録によると、パウロは2年間、エフェソに留まって熱心に伝道を続けましたが、おそらくその間に、協力者エパフラスによってエフェソ周辺の町コロサイにも福音が伝えられたと考えられます。「むなしいだまし事に気をつけるように」との警告が2章に記されていますが、偽りの教えが教会内に入り込んでいることを心配したパウロは直接訪れたことも、会ったこともないコロサイの人々に向けて手紙を書いています。



 パウロはコロサイの人々が信仰を持ち、お互いの愛を大切にしていることを聞き、神に感謝しています。そしてその信仰と愛は、天に蓄えられている希望に基くものであることを語ります。信仰と愛は、私たち人間の中から生み出されるものではなく、天からの恵みに支えられているものであることが示されています。



 後半には、福音という言葉が3回出てきますが、パウロは偽りの教えに惑わされているコロサイの人々に、彼らが福音という真理の言葉に生かされて今日に至っていることを気付かせたかったのではないでしょうか。

 あなたたちは福音という真理の言葉を聞いた者である、また福音は聞いて悟ることにより、実を結び成長する、さらにエパフラスを通して福音を学んだ者であることが語られています。



 私たちはどのように福音、真理の言葉、神の言葉を聞き、悟り、学んでいるでしょうか。また神の言葉を聞いて悟り、実を結んで成長する者として歩んでいるでしょうか。コロサイの人々への言葉は、私たちにも問いかけるものであることを思わされます。
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 2014年8月3日 
「すべてが可能」加藤誠牧師
フィリピの信徒への手紙4章10−23節



 「喜び」の手紙として知られるフィリピの信徒への手紙であるが、最後においてもパウロの最大級の喜びが記されている。「主において非常に喜びました」という出来事は、すでに語られていることであるが、フィリピの教会からパウロに対して「心遣い」が表された事である。しかも彼は「ついにまた」と表現している。パウロとフィリピの教会の始まりは使徒言行録16章に記されている。パウロの滞在はそれ程長くはない。生まれたての教会をパウロは後にしなければならなかったのである。経済的にも人数的にも小さなフィリピの教会は、しかし力の限りパウロを支えたのである。



 パウロをして「ついにまた」と言わしめた、フィリピ教会との関係のひびがどのように生じ続いたのかは語られていない。ひょっとすると「あの犬ども」のせいかも知れない。パウロの手紙には時折感情的な表現が見られるが、それ以上に彼は教会の徳を高めることに心を砕く。



 「心遣い」とはエパフロデトをパウロのところに送った事と彼が携えてきた「贈り物」のことであろう。具体的には献金である。彼は4章18節で「香ばしい香り」「神が喜んで受けてくださるいけにえ」と表現している。これはパウロの献金についての核心をつく言葉である。「香ばしい香り」とは旧約聖書では生贄の犠牲が祭壇で焼かれる時の香りであろう。しかし新約聖書を知る私たちにとってはキリストの香りを連想させる。十字架の上でその身を私たちの罪のためにささげて下さったキリストの香りである。献金はすべて主の十字架によって成り立つものである。更にパウロは「いけにえ」とまで言う。どんなに苦しい状況の中でパウロに贈り物がささげられたかを彼は知っている。否、献金はパウロのではなく、どこかの教会にではなく、本質的にすべて神にささげられたものである。まざまざと与えられた救いに感謝してささげられた献金は「いけにえ」である。神が喜んで受けて下さる恵みを私たちはまだ十分に知らない。フィリピの教会と共に知りたいものである。
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