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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2014年9月 7日 14日 21日 28日 目次に戻る
 2014年9月21日 
「上にあるものを」加藤豊子牧師
コロサイの信徒への手紙3章1−11節



 「さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」(1節)

 「キリストと共に復活させられた」ということが、繰り返し強く語られています。

 洗礼(バプティゾー)は、浸すという意味です。浸礼の洗礼式の場合、受洗者は一度全身を水に浸して沈められ、そしてそこから引き起こされるのです。まさにこれは、古い自分に死んで、新しい命を与えられキリストと共に生きる者とされたことを示しています。コロサイの教会には「巧みな議論」「むなしいだまし事」という言葉で表されているような偽りの教えが入り込み、人々を惑わしていました。人間の生み出した偽りの知恵、知識のようなものに惑わされず、キリストと共に復活させられた者であることを自覚し、地上のものではなく上にあるものを求めて歩んで欲しいとパウロは切に願っています。



 「貪欲」(プレオネクシア)言葉通りの意味は、より多く所有したがる欲望であり、所有への飽くことなき欲望です。十戒の第十番目の戒めは「隣人の家を欲してはならない…」口語訳では「隣人の家を貪ってはならない…」となっています。主イエスもどんな貪欲にも注意を払い用心しなさい、と語られましたが、貪欲は様々な罪の業を生みだすもとでではないでしょうか。「貪欲は偶像礼拝にほかならない。」(5節)とありますが、私たちの心を貪欲が支配することは、神ではないものを神とすることと同じです。私たちに求められていることは、神より託されているものの良き管理人であることではないでしょうか。



 コロサイの人々のみならず、私たちも地上のものに心惹かれやすい者であることを思わされます。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身につけるように、日々新たにされるようにとの勧めは私たちへの励ましの言葉でもあります。
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 2014年9月14日 
「育てられて」加藤豊子牧師
コロサイの信徒への手紙2章16−23節



 「頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。」(19節)

 キリストにしっかりと付いて歩んで欲しい、これがパウロのコロサイの人々への願いです。キリストにしっかりと付く、という言葉は2章6節「キリストに結ばれて歩みなさい。」という聖句にも重なっているように思います。今年度の教会標語「キリストに結ばれて歩む」は、ここから導かれたものです。



 なぜパウロはそのように繰り返し強く、キリストにしっかりと付くようにキリストに結ばれて歩むようにと勧めたのでしょうか。それは、コロサイの教会が、キリスト以外のものに結びつき、それに頼ってしまう危険に直面していたからです。コロサイの信徒への手紙の中で何度か勧告されているように、巧みな議論、人間の言い伝えにすぎない哲学、空しいだまし事といったものに影響されて福音から、キリスト御自身から離れてしまう恐れがありました。



 「食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のこと」「偽りの謙遜と天使礼拝」「世を支配する諸霊」「手をつけるな。味わうな。触れるななどという戒律」という言葉が続いていますが、これらは皆、彼らがキリストではないものを重んじ、そのことによって神に近づき、信仰を高めようとしていたことを表しています。



 私たちは信仰において、何か手ごたえのあるもの、直接的に実感できるものを求めようとする弱さを持っていることを思わされます。それは2千年前の昔も今も、変わらないのではないでしょうか。実感できるものに私たちは惹かれやすい、惑わされやすいのです。

 見えるもの、感じるもの、そのような感覚に惑わされることなく、頭であるキリストにしっかりとつながって、育てられ、成長するものでありたいと願います。
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 2014年9月7日 
「キリストに結ばれて」加藤誠牧師
コロサイの信徒への手紙2章6−15節



 「あなたがたは主キリスト・イエスを受け入れたのだから」とパウロは語ります。これは「信じたのだから」と置き換えても差し支えありませんが、「受け入れる」という表現にはそれなりの味があるように思えます。なぜなら私たちは意に沿わないことを受け入れた経験を持っています。私は小さな神学校に受け入れてもらったのですが、暮らしを共にしていた舎監は円形脱毛症になってしまいました。今ならそのご苦労が分かります。キリストを信じるとはキリストに従って歩むことを意味します。



 パウロは「従って歩め」という代わりに「キリストに結ばれて歩みなさい」と語ります。英語では「in Christ」です。直訳すれば「キリストの中を」です。英語力には自信がないので間違っていたら申し訳ありません。

 ふと「キリストの中」はどれくらい広いのだろうと思いました。私はin新宿、in 東京、in 日本に住んでいますが、新宿の隅々を知っている訳ではありません。日本ならば尚更です。「in Christ」がどれほどの広さと深さを持つのかを誰も知りません。きっと私たちが「こうでなければならない」と思うキリストとの結びつきよりも、もっと自由で(教会生活を自由気ままという意味ではなく)、豊かな歩みが用意されているのではないでしょうか。



 パウロはこの後、洗礼を受けるとはどういうことであるのかを伝えます。「キリストと共に復活させられた」と語ります。「復活」と聞くと誰もが死後の復活をイメージします。それは間違いではありませんが、それだけが復活ではないのです。「キリストと共にいかされる」事イコール復活です。私たちの肉体は日々衰えます。私の年でも同窓会で亡くなった人の話題になります。日々衰える中、そして死の瞬間を迎えなくてはならない時も、復活のキリストが私たちと共にいてくださるのです。これが復活を信じる者の希望です。
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