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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2014年10月26日 
「キリスト・イエスの僕」加藤誠牧師
コロサイの信徒への手紙4章7−18節



 昨年の釜山で行われたWCC総会に私はアドバイザーという形で参加しました。数日間に亘って午後グループディスカッションが行われました。私は幸いにして司会を小グループでする機会があり、その時のテーマは「今私たちの教会に最も求められているもの」でした。十数か国の歴史も人種も言語も違うキリスト者の答えは一致して「キリストの僕」であったことを鮮烈に記憶しています。



 世界宣教幹事をしていると、ほんのわずかですがパウロの気持ちに近づくことがあります。日本基督教団は20人ほどの宣教師を海外に送り出していますが、彼ら全員をまだ訪問していません。教会が苦難の中にあっても直ぐに飛んでは行けません。パウロの時代よりはるかに交通手段が良くなっても、そしてパウロのように獄に囚われているわけではないのですが、簡単に訪問出来ません。それでも今はメールという手段で思いを伝えることが出来ます。簡単に手紙も送れなかった時代、パウロがどれほどの思いを込めてこの手紙を書いたのか、想像する必要があります。



 4章後半にはたくさんの人の名前が連なっています。二人目に出てくるのがオネシモです。彼の名前はこことフィレモンへの手紙に登場します。フィレモンへの手紙を見ると、もう少し詳しくオネシモの事が分かります。何故パウロは脛に傷持つオネシモをコロサイの教会に送り返したのでしょうか?



 神学校時代、ある教師の口癖が「福音は人を生かす」でした。老年になって与えられた弟子のオネシモの将来をパウロは真剣に考えたはずです。どうしたらオネシモを生かすことが出来るかです。パウロの結論は恐らくオネシモにとって一番帰りたくないコロサイの教会への派遣でした。

 オネシモがこれに従ったのかどうか私たちには分かりません。しかしキリストの僕は、キリストが派遣するところには自分を捨てて出かけるのです。パウロの周辺にはそういうキリストの僕が多くいたことがこの手紙から伺えます。
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 2014年10月19日 
「祈り」加藤豊子牧師
コロサイの信徒への手紙4章2−6節



 「目を覚まして感謝を込め、ひたすら祈りなさい。」(2節)コロサイの信徒たちに向けての最後の勧めの言葉が記されています。「ひたすら」とは、原文では専心する、常に従事するという意味ですから、祈りに専念しなさい、と訳すこともできます。祈ることが強く勧められているわけですが、ひたすら祈るとは、ただ長時間、休むことなく熱烈に祈り続けることを求めている言葉ではないように思います。ここで心に留めるべきことは、「目を覚まして」祈ること、「感謝を込めて」祈ることではないでしょうか。



 「目を覚ましていなさい。」これは、主イエスご自身の言葉でもあります。主が再び来られる日のことを覚えて歩むようにとの主イエスの教えです。また、コロサイの信徒への手紙の中に「巧みな議論」、「むなしいだまし事」という言葉が出てきましたが、そのような言葉で表されているものは、人間の知恵、知識を頼りにするという教えでありました。偽りの教えに惑わされないで目を覚まして祈るように、とここで勧められています。さらに目を覚まして祈るとは、私たちが祈る相手がどのようなお方であるのか、はっきりと覚えて、意識して祈るということではないでしょうか。祈り求める前に私たちに呼びかけてくださるお方がおられることを覚えること。その呼びかけに聞く姿勢が整えられていることが求められるのではないでしょうか。



 苦しみの中で、困難な状況の中で祈る時、その祈りが神との対話ではなく、ただ自分自身を見つめることのみに捉われてしまうことがないでしょうか。危機や恐れが必ずしも私たちを神との交わりに導かないことを思わされます。目を覚まして、上を見上げ、神の呼びかけを聞くようにと私たちは招かれています。主イエスが教えてくださった主の祈りは、感謝と讃美、御名を崇める祈りで始まります。主の祈りに学びたいと思います。
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