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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年2月22日 
「ダビデとヨナタン」加藤豊子牧師
サムエル記上20章11−24a節



 イスラエルの最初の王として神に選ばれたサウルでしたが、今やその王位は退けられ、ダビデの登場によってその心は妬みに支配されるようになり、狂ったようにダビデの命を狙うように変貌します。サウル王の激しい妬みと殺意が描かれる中で、美しいと思える物語、ダビデとヨナタンの友情物語が語られます。



 ゴリアトとの戦いの後、「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した。」(18:1)とあります。一瞬にして心が深く結びついた、親友という言葉を越える関係を思わせる言葉です。またこの二人の間には、人間的な情愛だけではないものがありました。「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる。」(20:23)とあるように、二人の間にはどのような状況の中でも絶えずそこに、神がおられるということが意識されていました。



 サウル王の息子であるヨナタンは、順当に行けば次期王になることが約束されている地位にありました。しかし彼は「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように。」(20:13)とダビデに語ります。この言葉から、ヨナタンが次に王となるのは自分ではなく、ダビデであることを知っていたことがわかります。神によって選ばれた者に祝福があるようにとの言葉はまた、自分と一族が滅びることを覚悟している言葉でもありました。



 父サウル王が本気でダビデの命を狙っていること知ったヨナタンは、合図の矢を遠くに放ち、ダビデを逃がします。自分の思い、欲に支配されることなく、神の計画を静かに受け止めているヨナタンの姿が示されています。

 人と人との関係は崩れやすく、平和に維持することが難しいものです。ダビデとヨナタンの物語は、神が間に立って下さる関係、共に神を見上げることのできる関係が、主イエス・キリストにあって私たちに与えられているという希望を示しているのではないでしょうか。
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 2015年2月15日 
「万を討つダビデ」加藤誠牧師
サムエル記上18章1−11節



 ダビデはサウル王の家臣として着実に成果を上げその人気を不動のものとする。女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」と歌うのを聞き、サウルはダビデをねたむようになったと聖書は語る。「ねたみ」の感情はやっかいである。何故ならそれは殺意にまで発展するからである。その例は創世記ではヨセフが兄たちに「ねたまれた」結果殺害されそうになった事でも明らかである。或いは「ねたみ」という言葉は用いられていないが、カインとアベルの間の出来事には「ねたみ」が介在していたのではないかと容易に想像できる。



 サウルは王を退くべきであった。サムエルから聞かされた15章23節の言葉は彼の耳に残ったはずである。しかし彼は王の地位に固執した。上に立つ者は常に孤独である。そこに権力への妄執が入り込めば人間関係は破綻の一途をたどるのは当然のことである。



 救いようのないサウルの物語に希望の光を射し込ませるのはヨナタンの存在である。1節から4節まではいかにヨナタンがダビデを愛したかが記されている。ヨナタンが父サウルへのサムエルの宣告を知っていたかどうかは分からないが、魂と魂が結び付くような友情は聖書の中にもそう簡単に見当たらない。(ダニエルたちはそうかも知れない)

 特筆すべきはヨナタンはダビデと契約を結んだ事である。内容は分からない。しかし「契約」という以上神の前での契約である。ヨナタンがダビデとの友情を全う出来たのはこの契約の要素が大きい。



 聖書学校時代の友人がかつて「嫌いな人間を赦すことが出来、友人となる事が出来たのは、彼もイエス様に愛されていると思ったからです。」と何かの誌面に証していたのを読んだことがある。直ぐに分かったことだが嫌われていたのは私だし、私も紛れもなく嫌っていた。しかしかれこれ30年以上信頼できる友人である。人と人との間に主イエスの契約がある。ここにキリスト者は希望を見出すのである。
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 2015年2月8日 
「ダビデとゴリアト」加藤誠牧師
サムエル記上17章31−40節



 ペリシテからの長く本格的な独立戦争の幕開けである。とは言え、この戦いで敗北すればイスラエルにとっては厳しい冬の時代に逆戻りであり、サウルの王としての未来は無きに等しいものになるであろう。



 ゴリアトが代表としてイスラエルに一騎打ちを挑んだペリシテ側の内部事情に聖書は触れない。これまで圧倒的な軍事力の差を示していたことを考えると、一気に攻め込んで踏みつぶさないのが不思議な気がする。しかし数字を換算すると3メートル近い巨人であったゴリアトに戦いを挑む兵士が、ただの一人も40日にわたって出現しなかったのも常識的と言えばそうであろう。サウル王は誰よりも肩から上背が高かった、と紹介される。つまり武人として一際優れていたとも理解できると思うが、その彼が「恐れおののいた」のであるから、士気も下がるというものである。



 ダビデが戦場に来たのは兵士として参加していた兄たちに差し入れを届けるためであった。ゴリアトに対して戦う意思を表すダビデのことがサウル王の耳に入った。ダビデの姿を見たサウル王は最初失望する。しかし「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は・・・」というダビデの強い信仰に触れ、王はダビデに戦いの許可を与えると同時に彼に自分の鎧や剣を貸し与える。しかしダビデは王の行為をやんわりと断り普段通りの姿で石を5つ用意し戦いに赴く。すっかり油断したゴリアトはダビデに一撃で倒されてしまう。



 ゴリアトを私たちが直面する、自分の力ではいかんともし難く思える困難や障害に例えることが出来よう。ダビデの戦い方がヒントになる。神への信仰があったことは大前提であるが、彼は自分の最善を尽くして戦った。私たちに与えられている能力、賜物はそれぞれ違う。時に私たちは人の賜物を羨むが、神は何かしら私たちに与えられる。ダビデが石5つを用意したように、人の目には頼りなく映るかもしれない。しかし自分のベストと神への信仰が奇跡を生むことがあるのだと信じたい。
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 2015年2月1日 
「選ばれたダビデ」加藤豊子牧師
サムエル記上16章1−13節



 サムエル記の中心人物であるダビデが、初めて登場する場面です。この時、王を選び油を注ぐために遣わされたのは年老いたサムエルでした。幼い頃から神の言葉を聞き、人々に伝える者として仕えてきたその歩みは、苦しみと悲しみの連続であったと言えます。王を求める民と神との間に挟まれて苦悩し、また自らの手によって油注がれた王サウルに対し、王位はく奪の宣告もしなければなりませんでした。深く心を痛めた、夜通し主に叫んだ、と言う言葉がその心情を表しています。



 そのように傷ついたサムエルに対し主は、ベツレヘムのエッサイのもとに行き、新しい王を見出して油を注ぐようにと命じます。サウルに命をねらわれることを恐れつつも、最後まで主の命に従う姿がそこにあります。 長男エリアブを見て、彼こそ選ばれた者だと思ったサムエルに対し、主は容姿や背の高さに目をむけてはならない、と言われました。

 「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」(7節)「主は心によって見る」とありますが、これは主が、その人の心の善し悪しをご覧になって判断されるということを意味していません。人間は人を選ぶとき、自分の目に映ること、外見等に左右されたりしますが、神は人と異なり、その御心によってお選びになるのです。



 ダビデは一番年下で、食事の席にも招かれていませんでした。皆が晴れ着を着て席に着いている中、外で羊の世話をしていて急いで呼ばれたダビデは薄汚れた姿だったかもしれません。しかしまた、血色も良く、目は美しく、姿も立派であったともあります。このようなダビデが、神の御心によって将来の王として選ばれ、油注がれたことがここに記されています。 ダビデが歴代の王の中で一番尊敬されている王であることは間違いありません。羊飼いであった彼は牧者の心を持つ王でありました。



 ダビデ王誕生からおよそ1000年の時を経て、同じベツレヘムで真の王、真の牧者である救い主イエス・キリストが誕生されました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」と語られた主イエス・キリストが私たちに与えられていることを感謝したいと思います。
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