←ホームへ

シロアム教会 礼拝説教要旨集
2015年4月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2015年4月26日 
「ダビデの罪」加藤豊子牧師
サムエル記下11章1−17節



 ダビデは間違いなく、歴代の王の中で一番尊敬されている王と言って良いでしょう。神を畏れる心を持ち、自分の知恵に頼ることなく、神に選ばれた王に相応しく民からも家臣達からも尊敬されている姿を、サムエル記の中から見ることができます。しかし11章では、そのようなダビデがとんでもない、恐ろしい罪を犯したということが実に生々しく、赤裸々に記されています。



 兵士達がアンモン人との戦いに出ている間、ダビデはエルサレムに留まっていました。王自らが出陣する必要がないほど、イスラエルにとって有利な戦況だったと思われます。そのような中、夕方屋上を散歩している時、美しい女性、バト・シェバに目がとまります。ダビデはその女性が自分の家臣ウリヤの妻であることを知っていながら王宮に呼びよせました。その後、バト・シェバから「子を宿しました。」との知らせが届きます。ダビデは彼女との関係が明るみに出ないように、色々と知恵を絞り画策しますがうまくいきません。ついにダビデは、彼女の夫ウリヤを最も激しい戦いの最前線に行かせ、彼を敵の手によって殺させるという恐ろしい計画を実行しました。自分の身を守るために、罪に罪を重ねているダビデの姿がそこにあります。



 神を畏れる心を持ち、何よりも神の言葉を求めることを大切にしてきた信仰深いダビデ。しかし、その信仰が歯止めにはならずに欲望につき動かされて神の前に罪を犯してしまいました。聖書はこのダビデ王の罪を隠さず赤裸々に記しています。ダビデほどの信仰者が罪の深みにはまっていくというこの出来事は、罪の力とはそれほどに恐ろしく、決して侮れないものであることを、私たちに教えているのではないでしょうか。イエス・キリストの系図の中にこのダビデの罪のことが語られています。人間の罪の歩み、歴史を受けて主イエス・キリストは救い主として神のご計画の中で生まれてくださいました。私たちは、この主イエスの十字架の赦しの恵みの中に招かれているということを覚えたいと思います。
目次に戻るページトップ
 2015年4月19日 
「王国の約束」加藤誠牧師
サムエル記下7章1−17節



 「王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎをお与えになった」(7章1節)

 内憂外患が収まったのには幾つか原因がある。サウル王の子、イシュ・ボシェトの悲劇的な最後とエルサレム攻略の成功である。20年ほど前にイスラエルはエルサレム建都3000年の記念を行ったが、3000年後に同じ都市が首都になるなどということは歴史上極めて珍しい。エルサレムに移り住んで、ダビデは後方の憂いなくペリシテと戦い撃破する。つまり7章1節の記述はイスラエルの独立が周辺諸国に認められたと理解してよい。



 ダビデの王宮は5章11節によると、ティルス王ヒラムからのプレゼントである。建築資材のレバノン杉はレバノン共和国の国旗に描かれているほど古くから神殿にも用いられ、息子のソロモンが建てた神殿においてもレバノン杉はなくてならぬものであった。



 この章から預言者ナタンが登場する。しかしその登場の仕方はいささか情けないものであった。ダビデ王からそれとなく神殿の建設についての問い掛けがあり、ナタンは「何でも実行なさるとよいでしょう」(3節)と答える。けれどもこのナタンの答えは神の御心にはそぐわないものであった。その夜、ナタンに神の言葉が告げられる。



 預言者とは神の言葉を預かり伝える存在である。時にそれは自分自身を否定することでもある。ナタンは翌日、自分が言った「イエス」に対して神の「ノー」が告げられたことを王に話す。ある意味では面目丸つぶれであるが、何よりも語られた神の言葉に忠実であることが預言者の使命であることがナタンの行動から読み取れる。そしてダビデも又、神殿を建てるのは自分の役割ではないことを了承する。



 神の言葉は時に人の計画や思いに賛成の立場を取らない事があることを教えられる。しかしそれも神の祝福であることを、ナタンを通してダビデに語られた神の言葉から知るのである。
目次に戻るページトップ
 2015年4月12日 
「油注がれた王」加藤豊子牧師
サムエル記下5章1−5節



 「ダビデは30歳で王となり、40年間王位にあった。」(4節)

 ここでは、ダビデがイスラエルの長老たちから油注がれて、イスラエルとユダの王になったことが記されています。しかし、ダビデが初めて油注がれたのは遡ること20年前のことでした。神によってサウル王が退けられ、次の王を選ぶようにとの使命を託されて、サムエルはエッサイの子どもたちの中から王となる人物を選ぶことになりました。そして、その場に招かれていなかった、一番年下で羊の番をしていたダビデが選ばれ、油を注がれたのです。



 この20年間の殆どは、サウル王に命を狙われて荒野をさまよう逃亡生活でした。それはまた、神に選ばれた王となるために、必要な準備の時、学び、訓練の時でもありました。「主の託宣を求め」という言葉が何度か出てきますが、ダビデは何をおいても先ず神の言葉を求めることの大切さを学び、またさらに、神の時、神のなさり方というものがあることを信じ委ねて待つということを学んだのではないでしょうか。



 サウル亡き後、ダビデはユダの家の王として立てられましたが、イスラエルに於いてはサウルの子イシュ・ボシェトが王位を継ぎました。しかしこの王は飾り物に過ぎず、実権を握っていたのは将軍アブネルでした。アブネルは大変な野心家で、自分はイスラエルのすべてをダビデに従わせることができると豪語し、イシュ・ボシェトを見限ってダビデに近づきましたが、ダビデの家来に殺されてしまったとあります。



 アブネルもダビデも賢い、知略に富んだ策をめぐらす人物と言う点では似ていると言えるかもしれません。しかし大きな違いは、ダビデは神を畏れる心を持ち、アブネルは信仰なき野心家であったということです。

 「あらゆる苦難からわたしの命を救われた主は生きておられる。」(4:9)

 色々な策を練り、駆け引きをするダビデですが、根本のところでは「主は生きておられる。」という信仰に固く立っていたことを思わされます。
目次に戻るページトップ
 2015年4月5日 
「新しい言葉を語れ」加藤誠牧師
マルコによる福音書16章14−20節



 復活された主イエスは、人目を避けて家で食事をしていた11弟子に現われて、「不信仰とかたくなな心」をとがめられました。「不信仰とかたくなな心」は常に私たちに付いて回るものですが、ここで問題にされているのは弟子たちが十字架におかかりになった主イエスを見捨てて逃げたことではありません。主イエスの復活を伝えた他の弟子の言葉を信じなかったことです。



 この主イエスの「おとがめ」に対して弟子たちがどのような言葉を返したのか、どのような反応を示したのかをマルコは伝えません。その代わりに主イエスの宣教命令を記しています。地上の全ての教会は主イエスのこの宣教命令によってたてられました。全ての牧師、宣教師、教務教師はこの命令のもと召されています。



 「信じて洗礼を受ける者は救われる。」(16節)このメッセージを語ることに教会の存在意義があります。これは人間のルールではありません。人間の約束でもありません。神が主イエス・キリストの十字架を通して教会に語ることを命じられた神の約束です。「不信仰とかたくなな心」を持ったままの弟子たちに主イエスは福音宣教を託されました。



 17節からは派遣されてゆく弟子たちに対する主イエスの励ましです。主の名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る、とあります。宣教師のほとんどは言葉に苦労します。特に中年になってからの新しい言語の習得には想像を絶する苦労が伴います。

 先日の宣教師会議に参加したアメリカ合衆国長老教会(PCUSA)のチューン・リムアジア担当幹事から、ご自分が台湾に宣教師として派遣された時の証をお聴きしました。ある先輩牧師から台湾へ宣教師として行くことを打診されたのですが、50歳近い年齢と家族の事情もありお断りしたそうです。その数週間後に先輩牧師が突然神に召され、祈っていた時に彼は神の声を聴きます。それは聖霊体験と呼ぶほかない経験でした。彼は神の約束を信じて台湾に派遣されました。新しい言葉を語り、確かに主イエスが共にいて下さる経験をした、という証でした。
目次に戻るページトップ