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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年11月15日 
「生きる意味」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書9章1−12節



 「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」(1節)弟子たちの質問の背景にあるのは、障害や病というものが、本人あるいはその親、先祖の罪の結果であるとする当時のユダヤ社会の考え方でありました。それは悪い行いに対しては悪い報いがあるとする「因果応報」の考え方に通じるものです。昔も今も、私たちは身に降りかかって来る不幸、何で私に…と思うようなことの原因を過去に求めるという考え方に捉われやすいのではないでしょうか。



 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」(3節)

 主イエスは過去に原因を求めるような考え方を否定されました。過去ではなく、「神の業がこの人に現れる」と神の栄光が現わされるその人の未来に目を向けられました。今までどんなに多くの人々が、主イエスのこの言葉に慰めと希望の光を見出して来られたことでしょう。



 唾で泥を作り、その泥を塗ってシロアムの池に行って洗うように、との主イエスの指示は、意味のない、愚かにも見える行為です。しかし、ここではその言葉に従う信仰が求められました。「シロアム」とは「遣わされた者」という意味である、とあります。「遣わされた者」とは、神から遣わされた救い主イエス・キリストを指す言葉です。シロアムの池に行って洗いなさい、ということは、神から遣わされた主イエスのもとにこそ救いがあることを示しているのではないでしょうか。



 聖書は私たちの罪を度々「盲目」に譬えています。神のことが見えない、罪人である自分の本当の姿が見えない…それはたとえ肉眼は見えていたとしても盲目な私たちの姿であります。この一人の盲人がシロアムの池に行って見えるようになった出来事は、主イエスこそ私たちの罪で曇った心の目を開き、見えるようにしてくださる真の救い主であることを指し示しています。



 教会に「シロアム」という名前が付けられていることは素晴らしいことです。ここにこそ真の救いがあると、主イエス・キリストを指し示す存在でありたいと願います。
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 2015年11月1日 
「真理と自由」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書8章31−38節



 「真理はあなたたちを自由にする。」(8章32節)この言葉は国会図書館に掲げられている事をご存じの方もおられると思います。図書館でこの言葉を見れば、(本)の知識、真理が私たちを自由にする、と理解されても無理がないかも知れません。しかし、ヨハネ8章は「姦通の女」の話に始まり、その後ユダヤ人たちに「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と3度も繰り返された後の「自由」の話です。罪からの自由について主イエスは話されたのです。



 「真理」という言葉から私たちは様々な事を連想するのではないでしょうか?しかしここで言われている真理はtheの付く「真理」の事です。端的に言えば同じヨハネの14章6節で主イエスご自身が言われている「私は道であり、真理であり、命である」の英語訳を見るとthe truth となっており「真理の中の真理」と理解すべき内容だという事に気づかされます。



 主イエスはご自分を信じたユダヤ人たちにこのことを語りました。8章の最後をみるとこのユダヤ人たちは主イエスを石で打って殺そうとします。主イエスの語られた内容が彼らの理解を超え、しかも神を冒涜しているかのように響いたからです。主イエスはご自分を信じはじめたユダヤ人たちに弟子になる事を願いました。弟子になるためにはどうしても主イエスの言葉にとどまる」ことが必要条件だからです。



 主イエスは彼らにアブラハムの子孫であろうがなかろうが人間は罪の奴隷であることを語ります。そしてその罪から私たちを自由にするために主イエス来られたのだと語ります。聖書の語る「救い」の中心がここで語られています。ある牧師が聖書の中で「愛」と「罪」が記されている回数を調べました。すると「愛」よりも「罪」という言葉の方が2倍多く用いられていました。

 主イエスは私たちを「罪」から救うためにこの世に来られた、という聖書の福音を教会はいつの世あっても語り継いでゆかねばなりません。
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