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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2015年12月27日 
「良い羊飼い」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書10章1−18節



 主イエスはこのたとえ話をファリサイ派の人たちに話されたが(6節)、彼らには理解できなかったと記されている。流れから言うと、主イエスが安息日に盲人をいやしたことが9章の最初に記され、そこからファリサイ派の人たちの事情聴取が始まり、結局この盲人は外に追い出される。「外に追い出される」とは単に会堂の出入りを禁止されただけではない。ユダヤ人社会からの追放を意味する。ファリサイ派は主イエスから厳しく問わるが、当時の彼らは主イエスの目から見れば獅子身中の虫であった。神を求める者を逆に会堂から、教会から追い出したからである。



 このたとえ話を読んで私は恐怖を覚える。自分という存在が原因で誰かを神の国から、教会から締め出す可能性がないとは言えないからである。自分の正しさに少しでも立とうとすれば、私たちの誰しもがいとも簡単にファリサイ派の人たちになってしまうのではないだろうか。



 主イエスは良い羊飼いである。なぜなら羊に命を豊かに与えるからである。(10節)

 主イエスは良い羊飼いである。なぜなら羊のために命を捨てるからである。(11節)

 羊に命を与えるために主イエスは十字架の死を選ばれた。しかしそれは主イエスが再び命を受けることであることが語られる。



 この羊とは最短距離では9章の盲人を意味する。しかし旧約聖書で羊はしばしばユダヤ民族を意味する。そして囲いに入っていないほかの羊(16節)という表現から、私たちも羊である。さらに言えばファリサイ派の人たちも主イエスの羊である。なぜなら彼らのためにも主イエスは十字架におかかりになったのだから。



 私たちがファリサイ派にならずにすむ方法はただ一つである。羊飼いの声を聴き、羊飼いに従って歩むことである。私たちの新しい一年の歩みが、羊飼いの声を聴き分け、従って歩む一年になりますように。
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 2015年12月20日 
「新しい道」加藤誠牧師
マタイによる福音書2章1−12節



 イエス・キリストに関わる(信じる)ということは、大なり小なりその人の人生に波乱を引き起こす。東から来た学者たちにしてみれば、ベツレヘムまでの旅路は決して楽ではなかったはずである。しかもヘロデに騙され、この王の性格を考えると夢のお告げがなければ、彼らの命は秘密裏に処理されていたのではないかと思う。ヘロデにしてみても、ローマ帝国の傀儡の王としては、新たな、しかも正統な王の誕生はあってはならない出来事であったろう。エルサレムの人たちにしても、新しい王の誕生は、独立戦争と結びつく可能性が高かったので、不安を感じたとしても無理はない。



 教団が宣教師を派遣しているドイツのケルンには有名な大聖堂がある。完成に600年を要し、カトリックのヨーロッパ伝道の拠点となった教会である。200年かけて作られた黄金の棺にこの学者たちの遺骨が納められている。ひょっとすると遺骨としては最も多くの巡礼者を見てきたのかも知れない。交通の便が良くなってからは、それこそ世界中の人たちが集まる。



 聖書によれば、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」とある。普通に考えればエルサレムを通らない道であろう。そしてそれは回り道であったかも知れないし、人目を避けて通らなければならない道であったかも知れない。それ以上の情報を聖書は私たちに与えない。ただ言えることは、イエス・キリストの出会った学者たちに神は別の、彼らの命を守るための新しい道を用意された、ということである。



 イエス・キリストは出会う人の歩みに大なり小なりの波乱を引き起こす。そのために私たちは神が用意された初めての道を通ることになるかも知れない。しかしそこに神は私たちの命を生かす道を備えてくださる。クリスマスは単なるキリストの生誕日ではない。新しい出会いと道が用意されている日である。
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 2015年12月13日 
「救い主の誕生」加藤豊子牧師
マタイによる福音書1章18−25節



 アドベントを迎え、二週続けてイエス・キリストの系図の中から「タマル」「ルツ」という二人の女性を取り上げてメッセージが語られました。男性が圧倒的に優位であった時代に、系図の中に女性が登場することは驚くべきことでした。それ以上に、それぞれ表には出せない、伏しておきたいような事情を抱えている女性たちでありました。系図はユダヤ人にとって、自分たちは神に選ばれた者なのだという誇りを示すものです。しかし、隠しておきたいような人間の罪の姿が、ここにあらわにされています。



 「ダビデはウリヤの妻にによってソロモンをもうけ」(6節)

 ダビデはイスラエルの歴史上、最も尊敬されている偉大な王です。そのダビデ王が自分の忠実な部下、ウリヤの妻バト・シェバを宮殿に招き入れ、バト・シェバの妊娠を知るとそのことを隠そうと画策し、ついにはウリヤを戦いの最前線に行かせて戦死させ、彼女を自分のものにしてしまったというその罪が、ここには隠されることなく記されています。



 この系図は、人間が罪に罪を重ねて歩んできた歴史、自分の力では罪の力に勝つことはできず、失敗を繰り返してきた歴史、いつの時代にも戦争があり、平和を作りだすことができない人間の愚かな歩みを示しています。

 「…マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」(20節)

 誰かと誰かが結婚して子どもが生まれ…という人と人との営みが繰り返されている歴史の中に、人によってではなく、聖霊によって、神の力によって救い主が与えられたことが告げられています。「この子は自分の民を罪から救うからである」とあるように、私たちを罪から救ってくださるお方として来てくださった、救い主イエスの誕生の目的がはっきりと示されています。



 アドベントとは、「到来」を意味する言葉です。2千年前に、救い主が来てくださったことを覚えると共に、私たち一人一人の心の扉の外に、主イエスが来てくださっていることを覚えたいと思います。
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 2015年12月6日 
「心に触れる言葉」加藤誠牧師
ルツ記4章11−17節



 ルツはマタイ1章にある系図に出てくる3人目の女性である。前回のタマルにも共通して言えることであるが、一筋縄ではいかない背景がある。ルツ記は、敢えて一言でまとめればボアズとルツの結婚話である。興味深いのはタマルのケースと同様に当時の「掟」が物語にからむ。ルツとボアズの場合、最初から相思相愛のようである。2章13節にはボアズに対するルツの言葉として「心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」とある。ボアズは親戚としての責任感からであろうか、異国から来て一族に加わったルツを気にかけ、神の祝福を願う言葉を心を込めてルツに伝えたのであろう。人は物質的な援助もさることながら、心に触れる言葉によって生きる力が与えられるのではないだろうか。



 ルツからボアズに結婚が申し込まれるのであるが、二人の間には「掟」があった。ボアズより近い親戚がルツと結婚すると言えばボアズは彼女を諦めなくてはならない。幸いにして親戚の男性が降りたため晴れてルツとボアズの結婚が決まり周囲は祝福する。



 聖書が結婚を語るとき、キリストと教会との関係に重ね合わせて語ることがある。(エフェソ5章)そこから出発してキリスト者とイエス・キリストとの関係も、つまり信仰も聖書の語る結婚から考えることが出来る。ルツとボアズが出会ったように私たちにもキリストとの出会いがそれぞれにある。ルツがボアズの「心に触れる言葉」に心を動かされたように、私たちも心に触れるキリストの言葉に心を動かされる。そして信頼と愛情が生まれる。結婚に「掟」という強制力のあった時代、ルツとボアズの両者を思う愛情は成就しました。信仰も何らかの強制力をもって与えられるものでは本来ありません。キリストの言葉が慰めを伴って心に触れる時、キリストを信じて生きてゆこう、という思いが生じます。洗礼とはキリストとの結婚式に他なりません。そのことをルツとボアズの物語から、時代を超え現代に生きる私たちへの神の招きとして聞くものでありたく願います。
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