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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2016年1月31日 
「弟子の足を洗う」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書13章1−17節



 1節にある「この上なく愛し抜かれた。」という言葉が、ヨハネ福音書の後半、特に弟子たちとの場面での全体を貫く背骨である。

 昔ある宣教師からタイの山岳民族の結婚式の話を聞いた。それは式の中で新郎が新婦の足を洗うのが結婚式のハイライトだという話である。新郎の覚悟が問われる儀式であるが、このヨハネ13章を読めば読むほど、たとえ結婚式であったとしても簡単には出来ないと思ってしまう。



 主イエスが足を洗ったのは、一週間もすると全員自分を見捨てる弟子たちである。しかも2節にはイスカリオテのシモンの子ユダが特にフューチャーされている。そして3節には「父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと」を悟られたからこそ弟子の足を洗う行動に出られたことを伝える。

 師匠の行動の意味が分からないこそのシモン・ペテロの質問に主イエスは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる。」とお答えになられた。「後で分かるようになる」とはここ以外にも出てくる主イエスの言葉であるが、ここでの主イエスの言葉の響きに、親の子どもにかける言葉のようなものを私は感じる。自分が親になってみて初めて親の行動、言葉の意味が分かった、という経験を持つ人もいるのではないだろうか。



 主イエスが足を洗った時のユダの反応を聖書は記さない。どんな眼差しで主イエスがユダの足を洗い、どのような表情でユダが主を見下ろしていたのかを、意地悪なことに聖書は私たちに伝えない。

 しかし一つだけ確かに言えることがある。主イエスはペテロをユダを愛して、愛して、愛し抜かれたことである。今は分からなくても、ユダにも後で分かって欲しいと願って主イエスはユダの足を洗われたのではないだろうか。

 この愛を私たちは人に期待してはいけない。主イエスが望まれるのは、私たちが人に期待しないで、しかし後で主の愛に気づいてもらえることを期待して実行することではないだろうか。 
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 2016年1月24日 
「一粒の麦」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書12章20−26節



 大勢の人々がなつめやしの枝を持ち、「ホサナ、イスラエル王に」と叫びながら主イエスを歓迎しました。人々は、この方こそ旧約に預言されているメシア、救い主であると期待し、喜びます。しかし、彼らの期待するメシアの姿というものは、強大なローマ帝国との戦いに勝ち、ユダヤ民族に自由と繁栄をもたらす力強い王の姿でした。



 主イエスはそのような王として来られたのではありません。ユダヤ民族という枠を超え、全世界、全ての人のための救い主として、またご自分の命を捨てて全ての人に罪の赦しと命を与える救い主として来られたのです。そのことが今日の聖書個所にはっきりと語られています。

 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(24節)

 地に落ちて死ぬ、一粒の麦…それは、十字架の上でご自分の命をささげられた主イエス・キリストを指しています。そして私たちは、主イエスの十字架によってもたらせた多くの実りの一つなのです。



 北海道塩狩峠で、自分を犠牲にして多くの乗客の命を救った長野政雄さんという方がいました。三浦綾子さんの小説「塩狩峠」はこの実話をもとにして書かれています。亡くなられた時、クリスチャンである長野さんが懐に常に持っていた遺書があり、「苦楽生死 等しく感謝 余は感謝して全てを神に捧ぐ」と書かれていました。長野さんは一粒の麦となった主イエスの歩みに自分を重ねるようにして生きた方だと言えるでしょう。



 「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(25節)

 私たちが与えられている自分の時間、富などを、自分のためにしか使うことができないとするなら、それはここでいう「自分の命を愛する」生き方なのでしょう。しかし、そのような歩みから私たちは主イエスのようにささげて生きるという新しい生き方へ招かれています。
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 2016年1月10日 
「ナルドの香油」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書12章1−8節



 主イエスがラザロを生き返らせてくださった、その出来事を見て、多くのユダヤ人が主イエスを信じた、とあります。そしてそのことを快く思わず、危機感を抱いたのが祭司長、ファリサイ派の人々等ユダヤ社会の指導者、権力者たちでした。彼らは主イエスを殺そうと企むようになり、逮捕するためにその居場所が分かったら届け出るよう命令を出しました。



 周辺に危険が迫って来るような中、主イエスはエルサレムから2.3キロ離れた所にあるベタニア村を訪れました。そこには、ラザロとその姉妹マルタとマリアもいました。食事の時、突然マリアが主イエスの足に香油を塗り、自分の髪でその足をぬぐったと記されています。



 「純粋で非常に高価なナルドの香油」(3節)それは、ヒマラヤ原産のナルドという植物の根から作られたものであり、混じりけのない非常に高価なものでした。1リトラは約320グラム。そのひと瓶を惜しげもなく注ぐことで部屋は香りでいっぱいになりました。その場にいた人々は皆、一体どうしたことかと、驚いたことでしょう。



 12弟子の一人であるユダは「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5節)とマリアを非難しました。1デナリオンは当時の一日の賃金相当の金額ですから、確かに売れば何百人もの人を助けることができるかもしれません。理屈の通った正しい意見のように思えます。しかし彼はもっともなことを言いながら、自分はこっそり預かっていたお金をごまかしていたのでした。



 香油はマリアの混じりけのない、真っすぐ主イエスに向かう心そのものを表しているようです。「わたしの葬りのため」とあるように、香油は死者を葬る時に使われるものです。彼女の純粋なささげものは、これから十字架に向かう主イエスに最も相応しいささげものともなりました。私たちも、人からどう評価されるかではなく、主に喜んでいただける者でありたいと願います。
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 2016年1月3日 
「復活の命に生きる」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書11章1−27節



 主イエスと弟子たちそしてマルタとマリアとのやり取りから明らかになるのは、いかに彼らが(私たちが)主イエスの言葉を、約束を主イエスの思いに到達することなく受け止めているか、ということである。

 弟子たちは何故主イエスが、ラザロの病の知らせを受けても尚2日留まっておられたかを悟れない。トマスの「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか。」という言葉を私は笑えない。弟子たちは弟子たちなりに真剣であった。



 ユダヤの葬儀では3日間は故人のために泣く、と何かに書かれてあった。死後、直ちに墓に葬られたようであるが、マルタとマリアの姉妹は4日目に主イエスが現われた時には絶望と疲労の極致にいたと思う。

 主イエスの言葉は最短で事の中心を突く。「あなたの兄弟は復活する。」(11章23節)この驚くべき愛と慰めに満ちた主イエスの言葉も、その真意はマルタに届かない。マルタは終わりの日の復活と理解した。主イエスは更にストレートに「私は復活であり命である・・・・このことを信じるか」と問う。マルタの応えは立派な信仰告白であるが、この時は「あなたが復活であり命です」との応答が期待されたのではないだろうか?



 この後マリアも登場するが、同じやり取りが主イエスとの間に繰り返される。実際に墓に行き、石を取り除けようとするとマルタがその行為を遮る。主イエスが復活であり命である事を信じていないからである。恐らくはマリアも弟子たちも誰一人主が復活であり命である事を信じていない。しかし主は「もし信じるなら、神の栄光が見られる、言っておいたではないか」と声をかけてからラザロをこの世の命へと呼び戻す。



 主イエスは弟子たちを、姉妹を、そして私たちを叱ってはおられない。むしろ主イエスの命へ、信仰へと招いておられる。神の栄光が現われる世界へと私たちを招いておられる。神の栄光は主イエスの十字架と復活に現われるからである。
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