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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2016年3月27日 
「遣わすために」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書20章19−29節



 ヨハネによる福音書によれば復活された主イエスが最初に会われたのはマグダラのマリアであった。マグダラのマリアは弟子たちのところに行き、主イエスの復活と託された言葉を伝えた。

 その日の夕方の出来事をヨハネは記す。弟子たちはユダヤ人を恐れ、鍵をかけて、恐らくは息を潜めるように集まっていた。何のために集まっていたのかは記されていないので分からない。弟子たちの真ん中に主イエスが現われ平和の挨拶をされた。更にご自分であることの決定的な証拠として手とわき腹の傷跡をお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだが、主イエスは再びの挨拶の言葉に続けて「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言われた。



 これは驚くべき主イエスの言葉である。弟子たちは主の十字架を前にして見捨てて(マタイ)逃げ出した。マグダラのマリヤから主の復活を告げられてもユダヤ人を恐れて家に鍵をかけて潜んでいた。その弟子たちを父なる神がキリストを遣わされたように遣わすと主イエスは宣言される。ここでは遣わす目的がはっきりと述べられている。「父がわたしをお遣わしになったように」である。主イエスの業と働きの継承を命じられたのである。



 主イエスの業と働きが主の十字架に結び付いたように、弟子たちの働きも主の十字架と結びつく。だからこそ主は「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」と言われたのである。主イエスの教会は世のいかなる組織・団体と違い、罪の赦しを宣言することが主イエスによって委ねられている。弟子たち、そして私たちには本来人の罪を赦す資格など何もない。弟子たちは主イエスの十字架によって罪赦され、十字架と復活の主イエスによって人の罪を赦す、主イエスの本質的な働きを委ねられたのである。主の教会の使命はそこにあり、その使命を果たすためには、どうあっても聖霊の助けが必要になる。
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 2016年3月20日 
「成し遂げられた」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書19章28−30節



 聖書は主イエスが十字架の上で7つの言葉を残されたことを4つの福音書を通して記録しています。そのうちの3つがヨハネ福音書に記されており、2つがこの短い3節に記されています。

 「渇く」という言葉には単に死の直前の肉体的苦痛から発せられた言葉というよりは旧約聖書の言葉の実現であったことをヨハネは伝えます。恐らくは詩編22編が想定されていると思います。



 主イエスの言葉を聞いた人たちは酸いぶどう酒をヒソプにつけ差し出します。酸いぶどう酒とは変質してしまったぶどう酒です。古代教父の中にはユダヤ人こそはこの変質した役に立たないぶどう酒であったと説く人がおります。主イエスはこのぶどう酒を受けられました。これは肉体的渇きを癒すためのぶどう酒ではありません。28節には「イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り」とあります。神による救いの業が成し遂げられたのを知って、そのことを示すためにも酸いぶどう酒を飲まれたのです。つまり神の前では変質し酸いぶどう酒になってしまったユダヤ人を丸ごと主イエスはその身に引き受けられたのです。



 そして「成し遂げられた」と言われ息を引き取ります。以前の口語訳聖書では「全てが終わった」と補足の言葉を入れて訳していました。どちらも同じ意味です。神の救いの業が成し遂げられたのです。その宣言を主イエスはなさいました。



 弟子たちはこの出来事を遠くで見ることしか出来ませんでした。私たちも同じです。人の罪の救いに人間の行為は何の役にも立たないのです。罪なき神の子が人の罪を身代わりに背負ってその命を犠牲にすることで神は人間の救いを実現されたのです。

 主イエスは変質してしまったぶどう酒を飲んでくださいました。そのことは私には、罪の赦しと同時に存在そのものが変質してしまった自分を丸ごと主イエスが受け止めてくださった出来事に思えるのです。
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 2016年3月13日 
「ゴルゴタへ」加藤豊子牧師
ヨハネによる福音書19章16−27節



 十字架刑というのは、最も過酷な死刑の方法でした。主イエスは、むち打ちで傷ついた身体に自ら十字架を背負い、ゴルゴタへの道を進んで行かれました。ピラトにより「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれた罪状書きが十字架の上に掛けられました。その罪状書きはヘブライ語、ラテン語、ギリシャ語の三つの言語で書かれていて、多くの人がそれを読んだと記されています。このことは、主イエス・キリストがユダヤ人だけではなく、全世界の人々の救い主、王であることを示しています。



 「兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。…」(23節)

 十字架につけられた者の衣服を分け合うのは兵士たちの役得でありました。主イエスが全人類の罪を背負って十字架の上で苦しみを受けておられる、その足元では兵士たちが主イエスの服を分け合い、またくじ引きに夢中になっていました。十字架など自分たちには何の関係もないと主イエスの姿には目もくれず、目の前の損得ばかりに心が向いています。その有様は、いつの時代にも繰り広げられている、神を忘れた人間社会の姿と言えるのではないでしょうか。また「聖書の言葉が実現するためであった。」(24節)とあるように、十字架の出来事は人の思いを超えて成し遂げられた神の約束の言葉の成就でありました。



 十字架の足元には兵士たちとは別にもう一つの集団、母マリアなどの女性たちがいました。他の福音書では、女性たちが遠くから主イエスを見守ったとありますが、ヨハネによる福音書では十字架の足元に女性たちがいます。そこには愛する弟子もいて主イエスは十字架の上から声をかけ、母マリアと愛する弟子を結びつけてくださいました。それは、主イエスを中心とする神の家族としての教会の姿を示しているとも言えます。血が繋がっている家族でも親戚でもない者たちが集められ、主イエスにつながっている交わり、神の家族としての交わりがある、それが教会の姿です。昔も今もイエスの十字架の元に、神の愛を表す存在として教会が建てられていることを覚えたいと思います。
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 2016年3月6日 
「ピラトとイエス」加藤誠牧師
ヨハネによる福音書19章1−16節



 主イエスがローマから派遣された総督ピラトのもとで裁判にかけられる場面です。18章の28節から始まります。ピラトにはどうやら主イエスがローマ帝国の罪にあたるようなことをしでかした人物ではないことが最初から分かっているようです。しかし、ユダヤ人の指導者たちは何としてもローマの法に従って主イエスを死刑にしたいと考えていました。その理由を聖書は明確にしていませんが、32節には「御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして・・・」と記されています。つまりローマの死刑方法である十字架刑にかかることが神の主イエスに対する御心だと、主イエスは信じており、ユダヤの指導者たちが画策することと奇しくも一致していたことを示しています。



 ローマの総督であるピラトにすれば、最大限に気を付けるべきは反乱です。彼にはとても主イエスが反乱を首謀するような人物には見えなかったし、そのような報告も届いていなかったと思われます。故にピラトはバラバと比較したり、主イエスを肉体的にも精神的にも苦痛と辱めを与えることによって死刑を免れるようにしますが、「十字架につけろ」という声を消すことは出来ません。



 ついにピラトは公式な裁判の席に着き、主イエスを無罪にするよう最後の試みを行います。それに対してユダヤ人の指導者は「わたしには、皇帝のほかに王はありません」と答えます。その少し前に聖書は「もしこの男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない」とピラトを脅しています。ピラトが反乱と同じくらいに恐れるものは「裏切り者」という密告であったと思います。本来なら祭司長たちは「神こそが私たちの王」と告白しなければならない立場の人たちでした。



 このような裁判の経過で主イエスは十字架に向かわれました。ただここで覚えるべきは、ピラトやユダヤ人指導者の思惑と意志が人の目には全て思えるような状況で、しかしそれが神の御心でなければ主イエスの十字架の出来事は決して起こらなかったということです。神の出来事として十字架を見るのが聖書の見方であり、私たちの見方です。
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