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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2016年4月 3日 10日 17日 24日 目次に戻る
 2016年4月24日 
「ペトロの説教」加藤誠牧師
使徒言行録2章14−21節



 使徒言行録が記録する最初の説教である。つまり初代教会の最初の説教である。その中心は勿論主イエスにある。ナザレのイエスこそ神から遣わされた救い主であり、十字架と復活を通して命の道とその喜びを私たちに与えるお方であることが、ペトロを通して語られた。



 ペトロが引用したのは旧約聖書のヨエル書であった。「終わりの時に」とあるが、これは終わりの日々にと訳せる。個人的には「日々」の訳の方が好みであるが「血と火と立ちこめる煙」などという表現が、読者に決して楽な「終わりの日々」ではないことを伝える。そういう状況の中で、霊が注がれると息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見るのである。



 昨年89歳で天に帰った私の父は、50歳を過ぎて洗礼を受け55歳で国鉄を退職した。60歳をいくらか過ぎたころ、父は本心から教会に繋がる感謝を口にしたことがある。父の同僚の多くが仕事を辞めるのを機に、自分の居場所を失い、次第にしかし確実に弱ってゆく姿を見たころの事である。み言葉に触れることが何かしら自分に力と希望を与えることを実感したのだと思う。

 主イエスの救いには若者に幻を見せ、老人たちに夢を見させる力がある。それは幻が幻で終わらず、夢が夢で終わらないことの約束ではないだろうか。



 2章の41節にはペトロの説教を受け入れ、洗礼を受けた人が3000人いたことが記されている。彼らは素直に学び、交わりと聖餐そして祈ることに熱心であった。

 これはキリストの教会が今日に至るまで大切にしていることに他ならない。この教会の業を通して人々に聖霊が注がれる時、それが幻と夢の実現につながる。「血と火と立ちこめる煙」が周囲に満ちるような終わりの日々においても、主イエスの教会は「命に至る道」を証しする使命に生きるのである。
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 2016年4月17日 
「新しいぶどう酒」加藤豊子牧師
使徒言行録2章1−13節



 使徒言行録2章以下は、聖霊降臨日礼拝で良く読まれる個所です。五旬祭の日に、約束の聖霊が与えられたとあります。五旬祭とは50日目という意味で、過越祭から数えて50日目ということになります。主イエス・キリストが十字架に架かられたのが丁度過越祭の時であり、復活後40日にわたって弟子たちの前に現れ、さらに10日後祈り待ち望んでいる人々の上に聖霊が降りました。



 五旬祭とはもともとは麦の収穫を祝う祭りだそうですが、後にシナイ山で十戒が与えられた日を記念する祭りとなったと言います。昔イスラエルの民は、出エジプトの出来事の後モーセを通して十戒を与えられ、新しい神の民として誕生しました。同じように聖霊降臨においては、弟子たちの上に聖霊が与えられることによって、新しい神の民であるキリストの教会が誕生したのです。



 「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」とその場面が表現されています。「風」「炎」は聖書の中で神の臨在を示す象徴です。そのような言葉でしか表現できないような、神様が確かにそこにおられ働いてくださっているという特別な出来事が起こりました。弟子たちは様々な国の言葉で語り出したのです。

 このことは、イエス・キリストの福音が、エルサレムから始まって全世界の人々に伝えられることを示していると言えます。エルサレムで祈り待ち望んでいた人々に聖霊が与えられて教会が誕生し、ここから福音は広がって行ったのです。



 風が吹くと木の枝、葉が揺れ、また花が舞う…それは、そこに風が吹いているしるしです。教会に導かれ、聖書を読み、イエス・キリスト救い主として信じ洗礼に導かれる人が起こされる、困難な中も、信仰をもって神を見上げ、礼拝を大切に歩んでいる人がいる…それは、そこに聖霊の風が吹いているしるしではないでしょうか。キリスト者一人一人の存在こそ、聖霊の風が吹いているしるしであるということができるかもしれません。

 求める者に今も豊かに働き、信じる心、祈る力、愛する力を与えてくださる聖霊の働きを覚えつつ、歩み出したいと願います。
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 2016年4月10日 
「心を合わせて」加藤豊子牧師
使徒言行録1章12−26節



 使徒言行録は、聖霊を注がれた弟子たちが、地の果てにまで福音を伝えた旅の記録です。実際に旅が始まるのは、約束の聖霊が注がれ、教会が誕生する2章からだとすると、この第1章はその旅の準備、旅支度を整えているところと言えるでしょう。



 弟子たちは、主イエスに言われた通り、エルサレムに留まって、約束されたもの、すなわち聖霊を待ちました。離れないで待つように、ということは静かにそこに留まって、祈って待つようにということでしょう。聖霊を待つということは、自分が何かをすることをやめて、神の働きを待つことです。私たちは待つことが苦手で、すぐ自分の考えで動こうとしてしまいます。先ず、神様が私たちに求められることは、心を静めて神を見上げることです。



 先へ先へとどんどん進んで行こうとする、私たちの日々の生活の流れの中で、それを中断して、留まって祈りの時を持つということはなかなか難しいことです。しかし、私たちの信仰の歩みの中で忘れてはならないことは、流されないで、心を神に向けるという時を持つということではないでしょうか。

 また主イエスの弟子たち、そしてイエスの母マリア、婦人たちが心を合わせて熱心に祈っていたとあります。この、心を合わせて共に祈るということが、教会誕生の大切な準備となりました。



 切支丹屋敷跡から発掘された人骨が、DNA鑑定などでイタリア人宣教師ジドッチ神父のものである可能性が高いことが分かったとの報道がありました。江戸時代キリシタン禁制下、日本に潜入した最後の宣教師とされています。地の果てまで福音を伝えた人々の中に、力強い聖霊の働き、生きて働く神の力を見ることができるのではないでしょうか。そして聖霊は、今も私たちに、教会に注がれていることを覚えたいと思います。
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 2016年4月3日 
「地の果てに至るまで」加藤誠牧師
使徒言行録1章1−11節



 使徒言行録は1節に出てくるテオフィロという人物の関連で考えれば著者はルカである。ルカによる福音書1章3節では、テオフィロに献呈するために記されたことが分かる。であるから使徒言行録の1章1,2節は著者によるルカ福音書のまとめである。つまりルカによる福音書はイエスの行いと教えについて記されている。イエスとは何者か?がテーマであり、それは4つの福音書に共通する。



 主イエスは復活後、40日にわたって弟子たちに現われ神の国について語られたことが3節に記されているが、毎日弟子たちと行動を共にされたとは考えにくい。ヨハネ福音書の20章を見ると、復活の日の夕方現われて、次回は8日後である。主イエスが共におられない時弟子たちは何をしていたのだろう?直接聖書は答えない。しかしルカによる福音書ではエマオ途上の弟子たちの経験が、主イエスによる旧約聖書の解き明かしをクライマックスとして語られる。



 もし弟子たちが真剣に聖書に取り組んでいたとすれば、6節の弟子たちの「主よ、イスラエルのために・・・」という質問は、政治的というよりは信仰的な響きを感じる。そしてその質問に対する主イエスの言葉は、弟子たちの想像を超えたものであった。聖霊の力を受け、地の果てまで主イエスの証人となって遣わされるのである。

 教会はこの主イエスの派遣の約束で誕生した。私は教団の世界宣教という部署で働いているが、この言葉がなければ私は働きの存在意義を失ってしまう。



 これが主イエスが地上で残した最後の言葉である。復活後の40日という期間にどのような意味があるのかは分からない。しかし、主と弟子たちには、どうしても必要な時間だったのであろう。再び主イエスがこの地上に戻られるまで、主の教会はこの言葉に生きたかどうかが問われるのではないだろうか?
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