シロアム教会 礼拝説教要旨集 |
2016年7月 | 3日 | 10日 | 17日 | 24日 | 31日 | 目次に戻る |
2016年7月31日 |
「神の導き」加藤豊子牧師 使徒言行録11章1−18節 |
◇ 生まれたばかりの教会は、乗り越えるのが大変困難な壁とも言える問題を抱えていました。そのことが教会内の対立を生み、教会を二分していたことがわかります。教会の構成メンバーはユダヤ人キリスト者でした。そのユダヤ人たちの中には、自分たちは割礼を受けたユダヤ人であり、異邦人とは違う神に選ばれた特別な民族であるという意識の高い人達がいました。彼らは何が清い食べ物であるか等の食物規定や、異邦人と交際してはならないという決まりを厳格に守らなければならないと考えていました。そこには異邦人伝道への妨げとなる大きな問題があったわけです。そのような中で、ペトロは不思議な食べ物の幻を見、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」という神の言葉を聞き、異邦人コルネリウスの元に遣わされて伝道し洗礼を授けたのです。 ◇ そのペトロがエルサレムの教会に戻って来た時、厳格なユダヤ人たちは何故割礼を受けていない者たちのところへ行って一緒に食事をしたのかと、ペトロが伝道したことではなく、彼らと交際したことを非難しました。 「神がそうなさるのをどうして妨げることができたでしょうか。」ペトロの説明を聞いて非難していた人々はそこに神のみこころがあることを悟り、神を賛美する者へと変えられまし。ここに、人間の力では乗り越えられない壁を、神が乗り越えさせてくださっている姿を見ることができます。異邦人へのわだかまりはこの後も引きずる問題ではあります。しかし神はここで、対立していた教会を、異邦人伝道へと一歩前に進ませてくださったのです。これは、人ではなく神がなされた業であると思わされます。 ◇ 十字架の福音には、人間の力では越えられないものを越えさせる力があります。私たちの周囲には、根深く偏見や差別という問題があります。また私たちはもっと身近に破れてしまっている人間関係、修復の難しい関係を抱えています。そこを回復させる力、変える力の源は、主イエス・キリストの十字架の福音にしかないことを心に留めたいと思います。 |
2016年7月24日 |
「清さの問題」加藤誠牧師 使徒言行録10章1−16節 |
◇ コルネリウスという名のローマ軍の隊長であるからして、非ユダヤ人である。その信仰心のあつい人物に神は天使を送り、使徒ペトロを家に招くようにと命じる。短いやり取りから察するに、理由はコルネリウスには語られない。一方ペトロはペトロで摩訶不思議な幻を見る。律法で禁じられ、彼がかたくなに食べずに過ごしてきた(最もユダヤ人の家庭や市場でそれらの動物が食材として手に入ったとは思えないが)動物を屠って食べるよう促される。最後は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」という言葉を聞く。 ◇ 28節のペトロの言葉によると、ユダヤ人が外国人の家を訪問することは、絶対にあってはならないことであったらしい。しかしペトロは直前に見た幻を理解し、神が外国人に対しても道を開いてくださったことを信じた。 ◇ 34節の「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」というペトロの言葉は重要である。この神の言葉に教会が本気で生きるならば、差別と偏見から少なくともキリスト者は解放されて生きることができる。私たちの世界は益々不寛容がはびこるようになった。それは世界的な広がりを見せている。人を偏り見てしまう傾向を持つ私たちに、今日の聖書のみ言葉はチャレンジを与える。そして、教会こそがこの神の人を偏り見ない愛に生かされ、社会に証をなすべき存在である。 ◇ ペトロが話を続けていると、コルネリウスの家の者たちに聖霊が降った、と聖書は告げる。ユダヤ人にとって外国人は神の愛の対象外であった。だからこそ交際が禁じられていたのである。その外国人に聖霊が降ったという事実は、ユダヤ人のアイデンティティーがひっくり返るような出来事であった。しかしこの経験をペトロがすることで福音は全世界に広められてゆく。 |
2016年7月17日 |
「追われる側に」加藤豊子牧師 使徒言行録9章19−31節 |
◇ サウロが主イエスと出会い、回心に導かれた様子が9章に記されています。劇的な回心とも呼ばれるように、それはサウロの今までの生き方、価値観を180度方向転換するような出来事でした。サウロは放蕩三昧の生活から回心して真面目に生きるようになった、というのではありません。彼は、非常に真面目な、熱心に神を信じている青年でした。彼自身が後に述べているように、ガマリエルのもとで律法について厳しい教育を受け、熱心に神に仕えていたのです。それだからこそ、なおさら主イエスを信じ、福音を述べ伝える人たちが許せなかったのだと思います。サウロは、自分は神のために正しいことしていると、何の迷いも躊躇もなくキリスト者を迫害し続けたのです。 ◇ 三日間目が見えなかったサウロのもとに、アナニヤが遣わされて祈った時、目からうろこのようなものが落ち見えるようになったとあります。サウロのように劇的な回心を体験する人は、そう多くはないでしょう。しかし私たちは皆、聖書を読み教会生活を続ける中で「目からうろこ」という体験を与えられるのではないでしょうか。目が開かれて、こういうことだったのかと、聖書が示す真実を悟らされるということがあります。目を覆っているうろこは自分で取り去るのは難しい。しかし神の力は私たちの目を曇らせているうろこを取り除いて、新しい世界を見させてくださるのではないかと思います。 ◇ エルサレムに行き、使徒達の仲間に加わろうとした時、皆サウルを信じることができず恐れました。そのとき登場したのがバルナバです。「慰めの子」というその名の意味が示すように、彼はサウロと使徒達の間に入ってとりなし、橋渡しをしました。そしてサウロは教会から、故郷タルソスへ宣教のために送り出されて行くのです。 ◇ バルナバは、後のパウロという伝道者を生み出すために大切な役割を担った人物です。パウロ、バルナバ、ペトロ…そして名前の残されていない多くの働き人が用いられました。祈りがあるところに聖霊が豊かに働き、一人一人を用いてくださることを覚えたいと思います。 |
2016年7月10日 |
「呼びかける声」加藤誠牧師 使徒言行録9章1−19節 |
◇ 教団の世界宣教部では週の初めと終わりに派遣している宣教師の一人を覚えて、ここ2カ月ほど祈っている。不思議なことに例外はあるが祈っている宣教師からその週のうちに連絡が入る。一昨日の金曜日にもスタッフからN宣教師から連絡が入ったかどうか質問があったが、当日の午前2時半に私のスマホに報告が入ったことを告げ、神様の不思議な働きに感謝をささげた。 ◇ サウロがパウロへと変わることになった経緯が記されている。主イエスの圧倒的、強制的とも言えるサウロへの出会いと語りかけである。その余りの衝撃にサウロは三日間「目が見えず、食べも飲みもしなかった」。彼はキリスト教の迫害者であり、間接的に殺害をも厭わない者であった。その彼を主イエスは「わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないか」と宣言されるほどの使徒に変える。 ◇ そのために必要とされたのがアナニアである。主イエスから説明を受けても、アナニアにとって迫害者サウロに会い、彼をいやし洗礼を授けるには相当の勇気を必要としたであろう。しかし、生まれ変わったサウロが主の教会の仲間に加えられるためには、アナニアをはじめとするダマスコの弟子たち、そしてバルナバの証言を必要とした。彼らはサウロの身に起きた神様の業を讃美し伝えたであろう。 その意味では教会の働きは今日も変わらない。神様の不思議な業を伝えるのである。 ◇ パウロは洗礼を受ける。それは単なる罪の赦しではない。ガラテヤの信徒への手紙で語っているように「キリストと共に十字架につけられる」経験である。そして同時に「キリストがわたしの内に生きておられる」という経験である。この経験こそパウロが生涯をかけて証ししたかったことである。同時にそれは教会が今日も全力で述べ伝えることを主イエスから託されていることである。 |
2016年7月3日 |
「聖書の不思議」加藤豊子牧師 使徒言行録8章26節−40節 |
◇ ステファノの殉教の後、教会に対する大迫害が起り、使徒達を始め信じる者たちは皆、地方へ散らされて行きました。「散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。」(4節)とあるように、伝道の働きは迫害によって縮小するのではなく、更に力強く進められて行ったことがわかります。フィリポはステファノと共に選ばれた7人の一人でしたが、サマリア地方で伝道した後、地中海沿いの町ガザへと下って行きました。 ◇ そこで導かれたのが、エチオピアの女王に仕える高官との出会いでした。彼は、エルサレム神殿への礼拝を終えて、帰る途中でした。1,500キロも離れたエルサレムへ礼拝に向かう姿の中に、異邦人でありながらも切に神を、救いを求める熱心さを感じさせられます。女王の全財産の管理を任せられていたということは、非常に信頼の厚い、また地位も身分も高い人物だったと思われます。またそこに、宦官であったという説明が加えられているところに、この人の抱える深い悲しみを思わされます。 ◇ 高官が朗読していたのはイザヤ書53章の御言葉でした。アドベントの時に、メシア預言、救い主イエス・キリストの誕生を預言する言葉として礼拝で良く読まれる個所です。フィリポは馬車に乗り込み、その聖句について説きあかし、福音を告げ知らせました。求める心を持って熱心に聖書を読んでいたこの高官は、福音を受け入れる準備が整っていたのでしょう。すぐに主イエスを救い主と信じ、洗礼を受け、喜びにあふれて旅を続けたと記されています。 ◇ ここに、一人の異邦人に起こった救いの出来事が、丁寧に紹介されています。ユダヤ人だけではなくすべての人は救いに招かれており、また主は、私たち一人一人にその人に合った方法で出会ってくださるお方であります。聖霊の導きの中で伝道者が用いられ、また聖書の言葉と共に、そこに豊かな聖霊の働きがあったことを思わされます。 |