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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2017年4月30日 
「使徒の使命」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一4章10−21節



 「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(1節)

 パウロはコリントの信徒たちに向かって、あなたたちは肉の人だ、と言っています。肉の人とは、まだ固い物が食べられない乳飲み子のような状態、すなわちその信仰がまだ十分に成長していない、未熟な状態であることを意味しています。コリントの教会は、第2回伝道旅行の折にパウロによって生み出された教会です。1年半も滞在し、その信仰を導いてきた大切な信徒たちに向かって、大変厳しい言い方をしています。



 パウロは何故、このような言い方をしたのか…それは、彼らの中に自分の信仰はもう十分に成熟したのだと公言する人々がいたからでした。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる。」(3節)「ただの人」それは、救いの恵みに与っているにも関わらず、まるで神を知らない者のように、神のものとされていることを忘れて歩んでいる姿を示しているのではないでしょうか。



 教会の中に、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくという人達がいて、分裂分派が生じていました。パウロとアポロは、神からそれぞれ異なる賜物を与えられていた伝道者でありました。託された使命、働きは異なっても、共に神の同労者であることをパウロは強調しています。



 わたしたちは、決してコリントの信徒たちを批判できないように思います。わたしたちの心の内がキリストの光に照らされるなら、そこにまだ未熟な、肉の人と言われるものが見出されるのではないでしょうか。

 「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Tペトロ2:1−2)

 成長させてくださるキリストを見上げながら、歩ませていただきたいと願います。
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 2017年4月23日 
「神の畑」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一3章1−9節



 「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。」(1節)

 パウロはコリントの信徒たちに向かって、あなたたちは肉の人だ、と言っています。肉の人とは、まだ固い物が食べられない乳飲み子のような状態、すなわちその信仰がまだ十分に成長していない、未熟な状態であることを意味しています。コリントの教会は、第2回伝道旅行の折にパウロによって生み出された教会です。1年半も滞在し、その信仰を導いてきた大切な信徒たちに向かって、大変厳しい言い方をしています。



 パウロは何故、このような言い方をしたのか…それは、彼らの中に自分の信仰はもう十分に成熟したのだと公言する人々がいたからでした。

 「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる。」(3節)

 「ただの人」それは、救いの恵みに与っているにも関わらず、まるで神を知らない者のように、神のものとされていることを忘れて歩んでいる姿を示しているのではないでしょうか。



 教会の中に、わたしはパウロにつく、わたしはアポロにつくという人達がいて、分裂分派が生じていました。パウロとアポロは、神からそれぞれ異なる賜物を与えられていた伝道者でありました。託された使命、働きは異なっても、共に神の同労者であることをパウロは強調しています。



 わたしたちは、決してコリントの信徒たちを批判できないように思います。わたしたちの心の内がキリストの光に照らされるなら、そこにまだ未熟な、肉の人と言われるものが見出されるのではないでしょうか。

 「混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです。」(Tペトロ2:1−2)

 成長させてくださるキリストを見上げながら、歩ませていただきたいと願います。
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 2017年4月16日 
「主を誇れ」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一1章26−31節



 使徒パウロは分裂状態にあるコリントの信徒に、彼らが主イエスに召された時のことを思い起こすよう勧める。人間的な知恵や家柄の良い者が多かった訳ではない、とパウロは語ります。



 私たちが教会に導かれ、洗礼を受けることを決心するまでには百人が百通りの事情があると思います。聖書を全部読み、内容も三位一体などの教理も十分理解して洗礼を受けた人は恐らくいないと思います。なぜなら「受肉」とか「復活」は現在の科学では解明出来ません。つまり辻褄が合いません。知恵ある者が多かろうが少なからろうが、自力で主イエスの十字架の出来事を理解することは人間には出来ません。「だれ一人、神の前では誇ることが」出来ないのです。パウロは「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」(30節)と語ります。神の助けなくして人はキリスト・イエスに結ばれることはありません。人は人に教会を紹介することは出来ます。イエス・キリストを証することが出来ます。しかし人がイエス・キリストを信じることに関しては、神の助けなくしては起こり得ないのです。



 パウロはキリストが私たちの「神の知恵となり義と聖と贖い」となられたと語ります。本来、いかなる人間も神の前に自分を救うことは出来ません。しかしキリストが十字架の出来事を通して私たちにとって「神の知恵、義、聖、贖い」となられたことにより、私たちは神の子にされ、神の前に立つことがゆるされました。



 使徒パウロはコリントの信徒に単純に一つの事を求めています。主イエス・キリストに従う事です。主イエスの心を求めることです。主イエスを「誇り」として生きてゆくことです。そこにすべての教会が聞き従わなければならないのです。
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 2017年4月9日 
「神の知恵」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一1章18−25節



 「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(18節)

 「十字架」そのものに、人を救う力があるわけではありません。それでは「十字架の言葉」とは何を意味しているのでしょう。一言で言えば「福音」ということです。イエス・キリストの十字架の出来事、そこに神の救いが約束されているいうメッセージです。



 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。」(23節)

 2000年前のパウロの言葉ですが、今日の私たち教会の言葉でもあります。教会は、何を語り、伝えるところなのか…教会が語り続けてきたのは「十字架の言葉」です。しかしこの言葉は。聞いたすべての人に受け入れられてきたものではありません。ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの、とパウロは語っています。



 「木にかけられた死体は、神には呪われたものだからである」(申命記21:23)とあるように、ユダヤ人にとって十字架は神に呪われたものを意味します。十字架に架かられたイエスがメシアであるなど、受け入れることができないことでした。



 使徒言行録には、コリントの町の隣、アテネでパウロが福音を語ったとき、最初は興味深そうに集まっていた人々が、十字架に架かられたイエスの復活の話を聞いたとたん、その場を離れ去って行ったとあります。人間の知恵を愛するギリシャ人にとって、神の子が十字架に架かられ、そして神の力によってよみがえられたという話しは、愚かな、馬鹿馬鹿しい話にしか思えなかったことでしょう。

 信じる者には神の力であることを、パウロと共に告白し、救いに与っている恵みに感謝したいと思います。
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 2017年4月2日 
「中心はキリストの十字架」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一1章10−17節



 挨拶の次に「勧告」(10節)と来ます。いきなり本題に入ります。それだけコリントの教会とは信頼関係があるのでしょうか?それもそのはずで使徒言行録を見ると初代牧師はパウロと言って良さそうです。



 パウロやアポロ、ケファ(ペトロ)はこの手紙が記されたころにはコリントの教会に常駐していません(多分)。勿論みな存命ですが、生きていようが死んでいようが教会には時々亡霊がでます。つまり「・・・先生だったらきっとこうしてた云々」の類でこれがけっこう厄介です。更にコリントの教会にはキリスト派?の人たちもいたようです。これは謙虚に主イエスの生き方を慕う人たちではなくて、自分の主張をキリストに代弁させる人たちのようです。ごくたまに天使から言葉をもらったとか、神様から−を示されたと言う人がいますが、実は行動が証明します。自分のやりたい事なのか本当に神様から示されてやる事なのかは見ていれば分かります。



 パウロにも分かっていました。コリントの教会に必要なのは雄弁な人でもカリスマを持つ人でも学問の出来る人手も家柄の良い人でも絶対にありません。キリストの十字架を信じ、十字架のキリストに従う生き方をする人です。その人たちの特徴をパウロは語ります。「心を一つにし、思いを一つに」することは可能です。十字架のキリストを見上げることによって可能です。人の栄光、思いではなく神様の栄光、思いを求めてゆくときに私たちは一つにされます。



 先週私は兵庫県にある二つの教会を訪問しました。一つ目の教会の主任担任教師は韓国からの宣教師です。その逆、つまり韓国で韓国人教会を日本人が牧会するのは聞いたことがありませんが。国籍が違っていても必要とされるのは十字架のキリストを主と信じて従う教師であり信徒であることを改めて思わされた訪問でした。
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