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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2017年7月30日 
「弱さが必要」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一12章12−26節



 「皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」(コリント一 12:13 )

 今年は宗教改革500周年が記念され、教団においても様々な行事が企画されている。「伝道」のための企画であるが、改めて教会とはどのようにあるべきかを考える絶好の機会であろう。



 パウロは勿論コリントの教会を念頭に置いてこの手紙を書いている。或いは当時の習慣で自分の手紙が各地の教会で回し読みされることも考えているかも知れない。パウロはここでコリントの教会に必要な事を記しながら今日の教会が忘れてはならないことを記している。「皆一つの体になるために洗礼を」受けたのである。私たちはキリストの体の一部である。パウロは分裂したコリントの人々、そして教会を心から心配している。教会はキリストの体である以上一つである。500年前カトリックとプロテスタントは分かれた。それは神のみ心にかなっていたのだろうか?そして未だに分かれたままなのは果たして神のみ心にかなっているのだろうか?教会は一つであるべきなのである。その事を真剣に考えない宗教改革500周年は私には虚しく見える。



 パウロは「体の中でほかよりも弱く見える部分がかえって必要」と言う。弱さを抱える人が居て良い、と言うのではない。必要だ、と言うのである。これはこの世の価値観とは違う。キリストの体に生かされている人の価値観である。強さを求めているのではない。互いの違いを認め合うだけではない。弱い部分こそが必要なのである。この感覚にわれわれキリスト者が生かされなくてはならないと思う。そしてそれが教会の証となるのではないだろうか。
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 2017年7月23日 
「全体の益となるため」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一12章1−11節



 2017年はルターの宗教改革500年、ということで、すでに様々な記念行事も行われています。ルターは修道院で初めてラテン語訳の聖書に触れ、それを暗記するほどに読み込んだといいます。修道院生活の中でもルターの心には平安がなく、どうしたら神の審判を受けずに救われるのかと救いの確かさを求め、自分で努力すればするほど、神は自分から遠くに行ってしまわれるように感じ苦しんでいました。後にルターの心をとらえたのは「正しい者は信仰によって生きる。」(ローマ1:17)のみ言葉でした。ルターはこのみ言葉を通して、人は神の恵みによって、信仰によって救われるという福音の真理を発見します。そこには、確かな聖霊の働き、導きがあったことを思わされます。



 「…聖霊によらなければ、だれも、『イエスは主である』とは言えないのです。」(3節)

 12章は霊の賜物、聖霊の働きについて書かれています。パウロは、聖霊の賜物、働きには様々あるけれども、その中で一番大切なものは「イエスは主である」という告白へと導く働きであることを語っています。



 4節以下、「賜物にはいろいろありますが…」と具体的に聖霊の賜物について挙げられています。「知恵の言葉」「知識の言葉」「信仰」「病気をいやす力」等、パウロの時代、聖霊の働きは豊かで、教会には様々な賜物を与えられた人々がいたと思われます。そのことによって自分には特別な霊の賜物、力が与えられているのだと自分を誇る人もあったようです。



 「一人一人に霊の働きが現れるのは、全体の益となるためです。(7節)

 パウロは、それぞれの聖霊の賜物は、全体の益となるため、キリストを頭とする教会を立て上げるために与えらていることを教えています。
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 2017年7月16日 
「主の晩餐」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一11章17−26節



 パウロの時代に聖餐式がどのように行われていたのかは正確には分かりません。「主の晩餐」という言葉からすると今日の聖餐のようにパンとぶどう液(酒)のみではなく礼拝の中での食事会を意味していたようです。当時は日曜日は休日ではなかったはずですから、キリスト者は一日の働きを終えて礼拝に集まりました。そこで夕食が供えられるのは当然だったでしょう。しかしコリントの教会では勝手に各自が食事を始めてしまい、貧しい人たちが顧みられることがなかったことにパウロは腹を立てています。



 23節からのパウロの「主の晩餐」の制定の言葉から、教会は次第に今日の聖餐の仕方に変化します。パウロの時代から100年ほど後のユスティノスの「第一弁明」では当時の礼拝の中で聖餐の時が用意され、パンとブドウ酒と水が洗礼を受けた者に配られると記しています。今日の聖餐式とほぼ変わらないと思います。



 日本基督教団は「聖餐」で長い間揉めています。聖餐を受けたければ誰でも(洗礼を受けてない人でも)受けられると主張し実行している牧師もいれば、シロアム教会のようにどこの教会であっても洗礼を受けた人を対象にする教会も多くあります。十分に論じるスペースはありませんが、ただパウロの時代から50年ほど後に書かれたディダケー(12使徒の教え)では「洗礼を受けた者のみが聖餐を受けることができる」ことがはっきり書いてありますので、教会は長い間その教えを守ってきました。誰でも聖餐を受けることが出来る、という主張は20世紀に入ってから出てきたようです。
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 2017年7月9日 
「全て神の栄光のため」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一10章23−33節



 イエス・キリストを信じるという事は自己中心的生き方からキリスト中心の生き方への変換を生み出す。ここでは市場で売られている肉についての言及がある。現代ですらアジアの国々では(ひょっとして日本でも)偶像に供えられてから市場で売られることはよくあることである。ただ知っている人は少ないかも知れないが。キリスト者でなくても恐らく誰も気にしない。むしろ今日ではそちらの方が問題なのかも知れない。



 パウロも普段は気にしないが、キリスト者でパウロのことを気遣い、肉が偶像に供えられたものであることを伝えてくる人には、その人の良心のために食べることをしないと言う。神の前に彼が躓くことを恐れるからである。



 台湾基督長老教会青年委員会が毎年主催するI Love Taiwanというプログラムがある。今年は受け入れる台湾の青年と海外から参加の青年で120名であった。日本からも2名の青年が参加した。海外からの参加者は中国語や台湾語が出来る訳ではない。台湾も日本や韓国と同様、英語が公用語ではないので英語でのコミュニケーションが十分という訳でもない。しかしこれまで参加した日本からの青年たちは押しなべて「台湾病」にかかる。数名の青年でチームを組み彼らは2週間台湾各地の教会に派遣され教会の手伝いをする。国も言語も違う者同士がお互いの弱さをカバーし合いながら奉仕する中で成長するのである。



 「すべての点ですべての人を喜ばそうとしている。」というパウロの言葉は迫力に満ちている。しかし彼はそこに教会に、主イエスに繋がる者の喜びを見ている。
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 2017年7月2日 
「主の食卓」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一10章14−22節



 当時の教会はまだ誕生して20年ほどであろうから、教会固有の伝統や歴史、制度は当然不十分であった。「主の食卓」という表現と11章では「主の晩餐」という表現があるが、厳密に読めば違いを見出せるであろうが、どちらも礼拝に関わる事として受け止めたい。



 聖書ではしばしば神様との交わり、神の助けが「食卓」という言葉で表される。一番有名なのは詩編23編であろう。「あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ わたしの杯を溢れさせてくださる。」



 14節で「偶像礼拝を避けなさい。」とあるが、これはいつの時代のキリスト者にとっても大事な教えであろう。なぜなら偶像礼拝は神に敵対する悪霊の好むことだからである。ここで悪霊の存在や働きを論じるのは本意ではない。偶像礼拝を神ならぬものを神とする事と定義するならば、私たちは、私たちの弱さは神ならぬものを頼ってしまうことはないであろうか?それは主に「ねたみ」を起こさせる行動であるとパウロはコリントの信徒へ警告を発する。



 ここで大切なのは、私たちは「主の食卓」につくようにすでに招かれている存在だということである。言い換えれば礼拝を大切にし、もし礼拝に参加できないような状況ならば、主との交わりを大切にすることによって「食卓」の交わりに相応しく歩む者にされてゆくことであろう。シロアム教会のある新宿区は恐らく日本一高齢者の独居が多い。孤独の問題とも関連する。「主の食卓」は私たちを一つにする食卓である。キリストという一つのパンをいただく時、私たちは一つの家族になる。主の食卓こそが今を生きる人たちに必要とされている。
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