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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2017年8月27日 
「宣教の拠りどころ」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一15章12−24節



 「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」(19節)

 パウロはコリントの信徒に死者の復活を語る。彼らはキリストの復活を信じないのではない。死者の復活を信じないのである。当時の状況から理由は2,3考えられるが、要は信じられないのである。



 前総幹事の内藤留幸先生が7月末に亡くなった。前夜式としては異例の長さで十数名が思い出を語った。一番多く聞いた表現は「ゆっくりお休みください」であった。87歳という年齢を考えれば当然の表現であるが、そこには復活の希望が隠されている。内藤先生の最後の仕事は「信徒の友」の巻頭言であった。ご自分の残された時間の短さを知りつつ「もう少し」書きたいと言われたそうである。



 恐らくどんな人でも何かをやり残して地上の生涯を終わる。私たちは現実の生活でキリストに望みをかける。願い、祈る。しかしパウロは19節で「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは・・・最も惨めな者です。」と言い切る。私たちは勿論、この世の生活でキリストに望みを置くものである。それは否定されない。しかしそこだけで終わるならば最も惨めな者であるとパウロは言う。それほどリアルに死者の復活を喜び信じるべきである。更にパウロは「世の終わり」について言及する。人間の歴史は「悪」が栄え続ける歴史に見えるかも知れない。しかし再び来られるキリストがすべての支配を滅ぼすことを聖書は約束する。その日を私たちは肉眼で見ることは出来ないであろうが。最後に滅ぼされるのが「死」である。
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 2017年8月20日 
「最も大切なこと」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一15章1−11節



 コリントの教会は内部に分裂分派があり、また賜物をめぐっては教会内に混乱が生じていたなど、様々な問題を抱えていました。パウロはそうした問題に具体的に答えるように手紙を書き進めてきましたが、この15章では「最も大切なこと」を伝えようとしています。



 「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」(3節)

 「最も大切なこと」…それは、パウロ自身が受けたものであり、それを伝えたのだとパウロは語ります。受けたものを伝える、すなわちそれは伝承ということです。キリスト教の信仰は二千年以上もの間、教会によって伝えられてきました。リレーでバトンが次の人に渡されるように、信仰のバトンが次の人へと受け継がれてきたと言えるのではないでしょうか。



 毎週の礼拝で告白される使徒信条は、大切に受け継がれてきた信仰のバトン、信仰告白です。讃美歌21にはニケア信条が掲載されていますが、それよりももっと古いものが15章3−4節に記されています。

 「すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、」



 「聖書に書いてあるとおり」と二度繰り返し強調されていますが、それはイエス・キリストの十字架と復活、救いの業は、ある日突然起こった出来事ではなく、旧約聖書に於いて約束されていた神の救いの計画の成就であることを示しています。「最も大切なこと」がゆがめられることなく伝えられることが、私たちにも託されています。
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 2017年8月13日 
「造り上げる言葉」加藤豊子牧師
コリントの信徒への手紙一14章1−5節



 パウロが手紙の中で語っているのは、教会とは何なのかということです。教会はキリストの体であり、私たちはそこにつながる部分であること、一つ一つの部分が大切であり、むしろ弱く見えるところこそ大切な部分なのだと語られていいます。



 キリストの体である教会につながる私たちに、神様は様々な霊的な賜物を与えてくださっています。教える賜物、管理する、援助する賜物、病気をいやす賜物、異言、預言…様々な賜物があることが具体的に記されています。2000年以上も前の教会での出来事ですから、今の私たちには理解しにくい面も多くあると思います。特に14章では異言と預言について取り上げています。用語解説によれば異言とは、一般の人には理解しにくい信仰告白の言葉です。当時教会の中では、聞いても理解できない言葉、異言を自分の思いのままに語り、その賜物を誇る一部の人々がいて混乱が生じていたようです。それに対し、預言とは、未来を予知する意味での予言ではなく、神の御心を示す言葉、み言葉の解き明かしであり、説教のことをさしていると言えます。異言は人を造り上げる言葉ではないが、預言は人を造り上げ、慰め励ます言葉であると語られています。



 パウロは、多くの賜物の中で、一番大切な賜物は「愛」であると一貫して示しています。14章も「愛を追い求めなさい」という言葉で始まります。聖書が示す愛、それは独り子を世に与えるほどに私たちを愛してくださった神の愛です。自分を犠牲にしても相手を生かす愛がそこにあります。それは、私たちが努力して自分の中から生み出すことができるものではありません。その愛を主に祈り求めるように、招かれています。
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 2017年8月6日 
「信仰・希望・愛」加藤誠牧師
コリントの信徒への手紙一13章



 コリントの信徒への手紙一12章では、私たち一人一人に異なる霊的な賜物が与えられていることが記されている。そのことが13章、14章でも展開されているが、「異言」と聞いて多くの人は首をかしげるのではないだろうか?「人々の異言」とあるがこれは使徒言行録2章に記されていることと関係があるのかも知れない。この時使徒たちは彼らが行ったことも習ったこともない外国語を話したのである。現代でも異言を話すことが自然な教会がある。誤解されやすいのが、聖霊を受けることがイコール異言を話すことと理解する人がいることである。どうやらコリントの教会では異言を話す人が教会の秩序を乱していたらしい。



 パウロはこの13章で「愛」について語るが、単なる賜物としてではなく「最高の道」として示す。自己を犠牲にしても「愛がなければ、私に何の益もない」とまで言う。4節から7節までは「愛」の定義である。8節には「愛は決して滅びない」とまで言う。ここまで読んで思わされるのは、私たちが通常愛と考えているものはパウロの言う「愛」ではないのかも知れないという事である。



 当たり前のことだが永遠に滅びないものなどない。「完全なものが来たときには、部分的なものは廃れる」と10節で言われている。「完全なもの」が私たちの主イエスを指していることは明白である。ここでパウロは私たちの主イエスの愛について語る。「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」のはキリストが愛だからである。



 私たちが証するのは自分の愛ではない。キリストの愛である。キリストの愛がどれほど自分に注がれているのかをパウロは知っていたに相違ない。
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