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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2017年12月31日 
「御心ならば」加藤誠牧師
ルカによる福音書5章12−16節



 私の新共同訳聖書では「らい病」という言葉が使われていますが、版によっては「重い皮膚病」という表現になっている聖書をお持ちの方もおられると思います。主イエスは清くされた人に対して「行って祭司に体を見せ・・・人々に証明しなさい。」とお命じになりました。現代では治療し証明するのは医者の役割ですが、主イエスの時代、いやそれ以前から「重い皮膚病」であるかどうかを判断しまた回復した証明をするのは祭司の役割でした。このことは旧約聖書のレビ記13,14章に記されており、主イエスもご存知でした。



 この病人が主イエスにかけた言葉が「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」です。普通、病気に対しては「癒す」「治す」という言葉を私たちは使います。しかしこの人は「清くしてほしい」と願いました。レビ記によるとこの病を得た人は自ら「汚れた者」と叫びひとりで宿営の外に住まなくてはならないと記されています。村八分という言葉があります。除け者にされる意味で使われますが、二分残っています。これは結婚式と葬式だと言われていますが、この病を得て「汚れた者」とされた人は、礼拝共同体からも自らを離さなくてはならなくなります。



 この病が何という病名が付くのかは分かりません。ハンセン氏病とは区別されるべきだと私は考えますが、「清さ」を求めた背景は、勿論家族への再会や社会復帰があると思いますが、同時に神の御手の中に清くされて復帰する思いが込められていたのではないかと思います。その思いをくみ取られたからこそ主イエスは「手を差し伸べてその人に触れ」られたのではないでしょうか。
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 2017年12月24日 
「救い主の誕生」加藤誠牧師
ルカによる福音書2章8−21節



 主イエスの誕生を天使から賛美付きで聞かされたのは羊飼いであった。ベツレヘムの今日の天気は最低気温が4度、最高気温が11度であるからして、野宿するには仕事とは言え厳しい夜であったろう。旧約聖書で羊飼いであったと記されている人物の一人がモーセである。彼はエジプトの王宮で育てられたが殺人の罪を犯しミディアンの羊飼いとなり暮らす。主イエスの時代の羊飼いも半分社会の外にいる人たちのイメージである。



 実際彼らがどのような経歴を持つのかは分からないが、彼らに告げられたのは「あなたがたのために救い主が生まれた」というメッセージであった。王のためでなく、金持ちのためでなく、夜ふかふかのベッドで寝ている人のためでなく、自分たちのために救い主が生まれたと彼らは受け止めたはずである。



 「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」が彼らに与えられたしるしであった。彼らはベツレヘムに行き、その出来事を見ようとする。探し出した羊飼いたちは「天使の話したとおりだったので神をあがめ、賛美しながら帰って」行く。彼らは自分たちのために救い主が生まれて下さった事を信じて帰って行った。



 聖書はクリスマスの出来事を私たちに伝える。「あなたがたのために救い主が生まれた」出来事を私たちに伝えるだけでなく、その出来事を羊飼いたちのように、見ることを勧める。私たちもこの出来事を見ることが出来る。マリアのように心に留め、思い巡らすことによって。礼拝を通して聖書の言葉に触れることによって。主イエスが生まれてくださったからこそ、私たちに神の救いへの道が開けたのである。
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 2017年12月17日 
「あけぼのの光」加藤誠牧師
ルカによる福音書1章67−80節



 先週はマリアの賛歌の箇所で「あがめ」という言葉に関連してマグニフィカートと呼ばれている事を学びましたが、今週の箇所はマリアに対応するように「ほめたたえよ」という言葉に関連してベネディクトゥスと呼ばれています。英語の週報では祝祷にあたる言葉がベネディクションなので教会では日常的に使われている言葉です。



 ザカリアとエリサベトとの間に生まれた子供にヨハネと名付けたことが少し前のところに記されています。ザカリアは祭司でした。周囲の人々は息子も当然祭司職を継ぐので父と同じザカリアと命名されるとばかり思っていました。しかし両親は息子にヨハネと名付け、その時ザカリアは再び口を利くことが出来るようになりました。



 ザカリアの家系はひょっとしたら彼で終わってしまうかも知れません。しかしザカリアとエリサベトは息子の未来がしっかりと神の御手のうちにあることを信じました。78節には「我らの神の憐れみの心」という表現があります。天使の言葉を信じられず、一年近く口と恐らくは耳も不自由だったザカリアは、しかし沈黙の中で「神の憐れみの心」に触れたのだと思います。



 78節では主イエスが「あけぼのの光」に例えられています。「暗闇と死の陰に座している者たちを」照らす光です。口と耳が塞がれて、恐らくザカリア自身、自らの暗闇に向き合う時間が長くあったのではないかと思います。であるからこそ彼は「神の憐れみの心」を信じほめたたえる者とされました。私たちもザカリアのように神を賛美するものでありたく願います。
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 2017年12月10日 
「マリアの心]加藤豊子牧師
ルカによる福音書1章26−38節



 「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(29節)

 説教題を「マリアの心」とつけました。受胎告知と呼ばれる、クリスマスには何度も読んでいる聖書の箇所ですが、ここにあらわされているマリアの心は、戸惑い、不安な、揺れる心だったのだということを、改めて思わされています。



 天使は「おめでとう」と言って現れ、マリアが身ごもって男の子を産むこと、そしてその子はイエスと名付けられ、神の子と呼ばれることを告げます。マリアは「どうしてそのようなことがあり得ましょうか…」と言いますが、最後には「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と答えています。素直に、何の疑いもなく信じているようにも思えますが、マリアは、理解できない、分からないという心を抱えながらも神の言葉を信じた、信じる決心をしたのではないでしょうか。



 46節以下は、マグニフィカ―トと呼ばれるマリアの歌です。「わたしの魂は主をあがめ、」(47節)とありますが、あがめるという言葉は、大きくするという意味です。マリアの心…それは戸惑い揺れる心、不安ばかりが大きくなっていく心であったと思います。しかし、マリアは神の言葉を受け止めました。すべてを理解できなくても、そこに神の御計画があることを信じ、自分の中の不安、思い煩いを大きくするのではなく、神を大きくし、あがめるように導かれました。クリスマスを迎えるにあたり、わたしたちも、主をあがめるものでありたいと願います。
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 2017年12月3日 
「人をとる漁師に」加藤誠牧師
ルカによる福音書5章1−11節



 何故私みたいな者が神に選ばれたのだろう?これは永遠に疑問である、ペトロにとっても私にとっても。



 ヨハネ福音書2章によればベトサイダがペトロの町であった。地図を見るとベトサイダとカファルナウムは隣町である。ヤコブとヨハネの父ゼベダイには雇人がいたとマルコ福音書に記されているので、恐らくは網元であったろう。ペトロが何故故郷のベトサイダではなくカファルナウムで、恐らくはゼベダイの雇人の一人として漁師をすることになったのかは分からない。



 そういえば、先週のシモン(ペトロ)の家で彼の姑が主イエスによって高熱をいやしていただいた時、ペトロの影は薄い。もしペトロが会堂で主イエスが悪霊を追放するのを目撃していたとするならば、主イエスに姑のことを頼んだのは「人々」ではなくペトロであったほうが自然に思える。一晩中主イエスが病に苦しむ人たちに手を置いていやしている間、彼は何をしていたのであろう?



 夜通し働いて一匹も魚が獲れなかった朝、主イエスは再び漁をするようにペトロに話す。迷惑千万であったろう。「お言葉ですから」=「あなたの言葉に基づいて」と漁をした結果、船が転覆しそうなほどの大漁であった。「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです。」とペトロは告白する。一方的で圧倒的な主イエスのペトロへの関わり方にぺトロは自分の本質を告白する事しかできない。そして告白してしまった者は主イエスの招きの言葉に従う。何故私みたいな者をお選びになるのだ?という感謝と疑問を持ちながら。
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