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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2018年1月28日 
「安息日の主」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章1−5節



 ある安息日、主イエスが麦畑を通られたとき、弟子たちが麦の穂を摘んで食べました。それを見たファリサイ派の人たちが「なぜあなたたちは、安息日にしてはならないことをするのか」と言って批判したとあります。



 麦の穂を摘んで食べるという行為は、実は当時そんなに珍しいことではなく、日常的に許されていることでした。ファリサイ派の人たちが問題にしたのは、その行為が安息日に行われた、ということでありました。麦の穂を摘み、それを手でもむという行為は労働であり、それは安息日にしてはならないと決められていることであるというわけです。



 安息日については、出エジプト記20章に十戒の中の第4戒として取り上げられています。その他にも申命記5章にも安息日についての記述があります。そこには、かつてエジプトの奴隷であった者を神は救いの御手を伸ばして救い出してくださった、その救いの出来事を思い起こすために安息日を守るように命じられたのだと記されています。わたしたち一人一人にも、神が導き救い出してくださったという救いの体験があります。安息日にはそのことを思い起こすように、と招かれているのではないでしょうか。



 批判するファリサイ派の人たちに対し、主イエスはダビデ王の話しをされました。サウル王に命を狙われて逃げていた時、ダビデも伴の者も空腹になりました。その時祭司は、明らかに律法違反ではあったが、祭司しか食べることが許されていなかった特別なパンをダビデたちに与えたのです。

 主イエスは、安息日の意味、本質を見失うことがないようにと教えておられるのではないでしょうか。
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 2018年1月21日 
「新しい革袋に」加藤誠牧師
ルカによる福音書5章33−39節



 人は社会性を持つがゆえにルールが必要になる。或いは「型」と言っても良いだろうか。例えば大抵の教会には週報があり、それには礼拝順序が記されている。その「型」に従って礼拝が行われる。私が入学した神学校にもルールがあり独自の「型」があった。例えば朝5時半からの早天祈祷会はどこの神学校にもあるものではない。一方、どの宗教でもルールや「型」がなじんでくると必ず形骸化が起こる。



 ここで問題になっているのが断食である。ファリサイ派や律法学者たちにとって当然の断食を主イエスの弟子たちは行っているようには見えなかったのである。旧約聖書が律法と関連して断食に触れているのはレビ記16章ですが、それは年に一日の贖罪日です。

 主イエスは時折ファリサイ派たちの断食を批判される。それは「贖罪」から心は遠く離れ、熱心な場合には週に二度自らの信仰を誇るために行うからである(ルカ18章)



 主イエスは「花婿が奪い去られる時には彼らは断食することになる」(5章35節)と言われました。これは主イエスの十字架を指し、「贖罪日」と言えます。主イエスは「新しいぶどう酒は新しい革袋に入れねばならない」(38節)と言われました。レビ記に記されている断食についてのユダヤ人の革袋は本来の精神から遠く離れ古く変形してしまっているように思えます。



 主イエスはみ言葉という新しいぶどう酒を絶えず与えて下さるお方です。受け止める私たちの革袋がいつの間にか形骸化し或いはカチカチに古くなってしまっていないかを問われます。
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 2018年1月14日 
「招かれる主」加藤豊子牧師
ルカによる福音書5章27−32節



 徴税人とは、文字通り税金を徴収する人のことです。でもその税金は自分たちユダヤ人のために使われるものではなく、彼らを支配しているローマ帝国に納めるためのものでした。敵であるローマへ納める税金を集めているということで、徴税人はユダヤの国の中で大変な嫌われ者でありました。さらに、決められた額よりも余分に集めて私腹を肥やしていたので、裏切り者というレッテルを貼られただけではなく、神に背く罪人として軽蔑されていました。



 「レビという徴税人が収税所に座っているのを見て」(27節)

 収税所に座っている、という姿から想像できるのは、この人が周囲から孤立し、彼にはここしか居る場所がないという状況です。私腹を肥やし、金銭的には大変豊かだったと思われますが、彼はユダヤ人の交わりの中に受け入れてもらえなかったのだと思われます。



 そんな徴税人レビを見て、主イエスは「わたしに従いなさい」とお招きになりました。すると彼は何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った、とあります。それは、徴税人としての今までの生き方すべてを捨てて、主イエスに従い信じて生きる者となったということです。主の招きがあり、彼はそれに応えたのです。



 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(32節)

 自分は神の前に正しく生きている、そのような思いでいると、主の招きの声はなかなか受け止められないかもしれません。主の招きの言葉に謙虚に応えるものでありたいと願います。
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