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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2018年2月 4日 11日 18日 25日 目次に戻る
 2018年2月25日 
「主イエスの教え」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章37−42節



 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。」(37節)

 自分を人よりも高いところに置いて、相手を見下ろすようにして裁くことがないように、と戒められています。主イエスはここで、裁くということのすべてを否定されているわけではありません。正しい裁きというものが、必要とされる場合もあります。主イエスご自身も、神殿で私腹を肥やしている両替商たちに対して激しい怒りを表されました。正しい、神の裁き、神の正義が行われることを求める姿勢は大切です。時には、「不正に対して声を挙げることも必要です。しかし、ここで言われているのは、私たちの日々の生活、人間関係の中でなされる裁きのことです。人は多かれ少なかれ、裁いた経験を持ち又裁かれた経験を持っているのではないでしょうか。



 「あなたは兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の中の丸太に気づかないのか。」(41節)

 私たちは、おが屑に例えられている、人の小さな欠けや失敗等が見えて気になり、そのことを指摘せずにはいられなくなったりします。そのような私たちに主イエスは、先ず自分自身を省みるようにと教えておられます。



 この教えは、先ず弟子たちに、すなわち主イエスに従おうとする者たちに対して語られたものです。気を付けていないと、教会の中にこの「裁く」ということが入り込んできます。そしてそれは、放っておくと周りに影響を与え、人々を傷つけ主イエス・キリストの体である教会を傷つけることになります。私たちは皆、主イエス・キリストの恵みによって赦され、そして生かされている者であることを心に留めたいと思います。
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 2018年2月11日 
「幸いな人」加藤豊子牧師
ルカによる福音書6章20−26節



 この箇所は、同様の内容がマタイによる福音書5章に記されています。マタイでは「山上の垂訓」と呼ばれますが、ルカでは主イエスが平らな所にお立ちになった、とあることから「平地の説教」と呼ばれたりします。「貧しい人々は、幸いである。」に対して「富んでいるあなたがたは、不幸である」と記されてあるように、ルカでは4つの幸せに対して4つの不幸が、それぞれに応じるように語られています。



 この主イエスの説教は、誰に向けて語られたものなのか。「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた」とあるので、先ず弟子たちに向かって語られた言葉であることは確かです。弟子たちというのは12人だけではありません。17節以下には、大勢の弟子とおびただしい民衆が主イエスのもとに集まった様子が記されています。



 主イエスの目の前にいる人々は、まさに貧しいものたちでありました。仕事を捨て家族のもとを離れ、貧しさを実感している弟子たち、そしてその他にも従う者たちがそこにいました。彼らに対し主イエスは、あなたたちは幸いなのだ、何故なら神の国はあなたたちのものだから、と語られたのです。幸いなものである理由、それは神の国が与えられていることにありました。神の支配の中に生かされている、神に生かされていることを信じ感謝して生きていくこと、そこにこそ真の幸せの理由があると語られています。



 富んでいる人が不幸だと言われる理由は何でしょうか。「あなたがたはもう慰めを受けている」とあります。受けているということは、既に十分に受けておりこれ以上は要らないという状態です。神からの慰めを求めようとしない、そこに不幸と言われる理由がありました。

 「幸いである」という言葉は、祝福の宣言です。その言葉は、わたしたちに向けても語られていることを覚えたいと思います。
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 2018年2月4日 
「12使徒」加藤誠牧師
ルカによる福音書6章12−16節



 そのころ(12節)というのは彼ら(律法学者やファリサイ派の人々)が主イエスに対して怒り狂った(11節)時であり、12弟子を選び終えると大勢の弟子や民衆が全土から押し寄せてきたころ(17節)のことである。



 教団の中に宣教師人事委員会がある。気を遣いシンドイ委員会である。何故ならこの委員会の承認がなければ教団の宣教師にはなれない。そしてこの委員会がノーと言えば宣教師を続けられない。そして人事は人と人との事でもあるので必ずしも上手くゆかない。つまり私には人を見る目がない事を何度思い知らされてきたことであろうか。



 主イエスは夜を徹して祈り12使徒を選ばれた。判断と責任は全て主イエスにある。マタイとマルコにも共通して言えることは最後にイスカリオテのユダが選ばれたこと。そしてこのユダには「裏切り者」という修飾語が付いていることである。単純に順番を考えれば、主イエスは最後にこのユダを選ばれたのであろう。このユダの裏切りによって兵士たちが手引きされたことが記されている。つまり主イエスは先にある十字架を見据えて12使徒を選ばれたことになる。



 主イエスと12使徒が山を下りると数えきれないほどの人たちが押し寄せてきたことが記されている。目的は主イエスの話を聞くことと悪霊や病からのいやしであった。人々は何とかして主イエスに触れようとした。「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていた」(19節)とルカは告げる。徹夜で使徒を選び、十字架への道筋を確認した主イエスから力が出ていたのである。主の十字架にこそ私たちをいやす力があるのではないだろうか。
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