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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2018年5月 6日 13日 20日 27日 目次に戻る
 2018年5月27日 
「恐れるな」加藤豊子牧師
ルカによる福音書8章49−56節



 主イエスは、会堂長ヤイロの家に向かっていました。12歳位になる、ヤイロの一人娘が死にかけていたからです。途中、12年間病に苦しむ女性をいやしてくださった出来事が記されています。そしてまだその女性と話しておられるときに、ヤイロの家から人がきて、「お嬢さんは亡くなりました。この上、先生を煩わすことはありません。」と告げたのです。この時、ヤイロがどのような思いになったのか…聖書には何も書かれてありませんので想像するしかありませんが、突然の愛する者の死を知らされて悲しいという感情がおこるよりも、事態を受け止めることができず混乱した状態になったのではないでしょうか。



 主イエスはヤイロに言われました。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば娘は救われる。」この状況で、「恐れることはない」と言うことができる人がどこにいるでしょうか。主イエスの他、誰一人いないでしょう。ここに、死に直面してもなお死を恐れない、死を打ち破る力を持つ方が立っておられることが示されています。私たちは死の力に圧倒され、支配されそうになります。しかしただ一人主イエス・キリストは神の力によって死を打ち破り、命に至らせることができるお方であります。



 私たちの肉体はもろく、また病に苦しめられるときがあり、何よりも死を前にしては無力です。そして病だけではなく、私たち人間の力ではどうすることもできないと思わされるような出来事に、しばしば直面します。それは私たちには修復不可能と思える困難な人間関係かもしれませんし、解決不可能と思える問題かもしれません。しかし、死の力をも打ち破られた主イエス・キリストが、恐れることはない、ただ信じなさいと招いてくださっていることを覚えつつ、新しい一週間を歩みだしたいと願います。
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 2018年5月20日 
「手を伸ばして」加藤豊子牧師
ルカによる福音書8章40−48節



 今日読んで頂いたところには、二人の病人がでてきます。ヤイロという会堂長の娘と長年出血が止まらないという女性です。ヤイロの娘の話の間に挟まれるようにして、12年間病に苦しんできた女性の話が語られています。ヤイロの娘は死にかけているという状態でした。一刻を争う、緊急性の高い状況と言えます。それに比べると、12年間病に苦しむ女性は、慢性の病人と言えるかもしれません。しかし、緊急性は低くても、12年間出血が止まらないというこの女性の状況も、大変深刻なものであったと思います。この症状のために、律法に従って彼女は人前に出ることが許されませんでした。肉体的な苦しみだけではなく、社会的にも疎外されるという苦しみがありました。全財産を使い果たした、とありますから経済的にもどん底の状況だったでしょう。本人も、家族も長年つらい思いをしてきたのではないでしょうか。



 この女性は主イエスのうわさを聞き、この方なら治してくださるのではないかと、藁をもつかむ思いで主イエスに手を伸ばしたのだと思います。その手は強い確信に満ちて伸ばした手ではなかったかもしれません。しかし主は、その思いに応えて癒してくださいました。本当はすぐその場を離れて帰りたかったかもしれません。しかし主は「わたしに触れたのはだれか」と呼びかけ、彼女は皆の前に進み出て、自分の身に起こったことを話すよう導かれました。



 隠れるようにして生きてきた一人の女性が、主を証しして生きる者へと導かれました。「安心して行きなさい」との主イエスの言葉が、信じる者に与えられています。
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 2018年5月6日 
「神がなさったこと」加藤誠牧師
ルカによる福音書8章26−39節



 聖書の後ろにある地図を見ると、ゲラサ人の地方は仮にガダラという町だとすると、カファルナウムからはガリラヤ湖の対岸に当る。「豚」が飼われていたので、ユダヤ人からすれば外国である。そこで主イエス一行は悪霊に取りつかれた男に出会う。衣服を身に着けず墓場を住まいとしていた。しかも主に語った言葉も自分の言葉ではなく、悪霊の思いを語らせられていた。



 一見すると異常な情景だが、今の日本にも社会や家庭から離れて暮らす人大勢いる。かく言う私も中学時代は家出を繰り返していたので、さすがに墓場に行く気はなかったが、ホームレスであった。本音と建て前という観点からすると、自分の思い通り主張できる人ばかりでもないであろう。私にはこの男が何か重度の精神疾患を患っているようには思えない。



 東南アジアの文脈では、伝道と悪霊追放とは密接な関係にある地域が多くある。ひょっとすると物質的に豊かになり過ぎている私たちは、悪霊からも見放されているのではないかと思う時がある。



 彼は主イエスによって悪霊どもを追い出していただき正気になった。(35節)「主イエスの足もとに座って」いる姿が住民に目撃される。彼の願いは「主イエスの足もと」に自分を置くことであった。(37節)しかし主イエスは自分の家に帰るように言う。更に神がなさったことをことごとく話して聞かせる」よう命じる。 神が自分にしてくださった事を語るのが証であり伝道であることをこの出来事は私たちに教える。
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