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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2018年7月15日 
「主の弟子のありよう」加藤誠牧師
ルカによる福音書9章46−48節



 今日のところから場面が変わります。「エルサレムに向かう決意を固められた」とあるからです。主イエス一行はガリラヤ湖周辺からエルサレムを目指します。直線距離にして100キロほどですがサマリアを通り抜けられようとしました。サマリアはヨハネ4章の記事から、ユダヤ人を快く思っていなかったことが分かります。恐らく遣わされた弟子たちが礼を尽くしたにも関わらず、歓迎されませんでした。そのことに対して怒るヤコブとヨハネを主イエスは諌められます。



 教会内のトラブルは大抵人の善意が伝わらなかったり、拒絶されることから始まるケースがあります。時には善意と善意がぶつかって不和が生じることもあります。ヤコブとヨハネの反応は過激ですが、彼らの気持ちが分からない訳ではありません。そして主イエスが彼らを諌められたことを大切に受け止めたいと思います。



 57節からは主イエスに従おうとする3人の言葉とそれに対する一見厳しく聞こえる主イエスの言葉が記されています。これも「エルサレムに向かう決意」という緊張の中で聞かれるべき主の言葉です。しかしながら「人の子には枕する所もない」という言葉は伝道者が心の底に持っていなければならない言葉だと思います。ただそれは各人が持つべき思いであり、組織の上から強制されるべき事柄ではありません。主イエスの十字架の出来事を経て、弟子たちも枕するところのない生活を経験したはずです。しかしそこに絶えず主の守りと導きがあったからこそ教会が誕生したのだと思います。
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 2018年7月8日 
「最も小さい者」加藤豊子牧師
ルカによる福音書9章46−48節



 「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」(46節)

 誰が一番偉いのか、そのようなことを口に出して議論するというのは、大変大人げない振る舞いのように思います。しかし、口には出さなくても誰の心の中にも、そのような思いというのは存在するのではないでしょうか。「イエスは彼らの心の内を見抜き」とありますが、わたしたちの心の動きも、主イエスはよくご存知であります。「偉い」と言う言葉は「より大きい」という言葉でもあります。相手に対し、自分をより大きく見せたいと、わたしたちの心は動くことがあるのではないでしょうか。



 主イエスは一人の子どもをご自分のそばに立たせて、この子どもを受け入れる者がわたしを受け入れるのであるとお話しされました。当時のユダヤ社会の中では、子どもや女性は数に入らないような扱いをされていました。社会の中で認めてもらえない小さな存在です。主イエスの生涯を振り返ると、それは社会の中で小さいものとして扱われている人々に近づき、友となってくださった歩みであったことを思わされます。弟子たちの願いは、偉大な王として主イエスが活躍され、また自分たちもそのお方に仕える立派な弟子として高く評価されることだったのだと思います。より大きく、偉く、と上を目指すことに心が向いている弟子たちに主イエスは小さな子どもの姿を示し、仕える者として召されていることを示しておられます。
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 2018年7月1日 
「栄光の主」加藤誠牧師
ルカによる福音書9章28−36節



 ルカの9章、そして聖書全体のテーマの大きな一つが「主イエスとはどのようなお方か?」という事である。主イエスは弟子たちにご自分のことを聞かれペトロは「神からのメシアです」と答える。そこを経て初めて主イエスは弟子たちに「十字架」の話をなさる。



 今週は、それから八日後の話であるが、内容的には繋がっている。つまり「主イエスはどのようなお方か?」という結論の部分と考えても良いと思う。主イエスがペトロ、ヨハネ、ヤコブを連れて祈るために山に登られた時、弟子の3人は特別な経験をする。それは旧約聖書を代表するモーセとエリヤが主イエスと語り合うのを目撃するという、特権中の特権のような出来事であった。



 31節には「二人は栄光に包まれて現われ」主イエスのエルサレムでの「最後」について話す。彼らが見たのは「栄光に輝くイエス」であった。彼らが話していた内容は主イエスの「最後」であった。最後という言葉から、しかも八日前の話の内容から私たちは主イエスの十字架を想像する。それは間違ってはいないが、「最後」にあたる原語は「エクソドス」である。使徒言行録が語る「雲に覆われて」天にあげられた主イエスの姿が連想される。



 この3人の弟子には「栄光に輝くイエス」の姿を見る特権が与えられた。私たちの日常において、このような形で「栄光に輝くイエス」を見ることはないであろう。けれどもキリスト者にはその日常において苦難の十字架のみではなく、神の栄光を垣間見ることが赦されているのではないだろうか。だからこそ私たちは顔を天に向けるのである。
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