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シロアム教会 礼拝説教要旨集
2018年8月 5日 12日 19日 26日 目次に戻る
 2018年8月26日 
「天からのしるし」加藤誠牧師
ルカによる福音書11章14−23節



 悪霊とかベルゼブルとかサタンとか言われても、私たちには区別がつかないどころか現代人にとっては空想上の存在としか思えないであろう。しかし聖書の時代、人々は悪霊の存在を信じていたし、聖書が語る以上サタンの存在を信じる(勿論崇拝するという意味ではないが)キリスト者は多くいると思う。



 主イエスに対するベルゼブルの例を用いた誹謗は、誰が考えたとしても主イエスの言葉のほうが筋が通っているように思う。そしてまた、「天からのしるし」と思えるほどの圧倒的な奇跡を求める心理は、社会が貧富の差に満ち、腐敗すればするほどいつの時代にも見られる。主イエスの時代はローマ帝国に支配されていたことを考えると、そしてエルサレムに入城した主イエスを群衆がどのような態度で出迎えたのかを読むと、「イエスを試す」という言葉の中にも彼らの望む姿のメシアを求めていたのではないかと思わされる。



 更に増えてきた群衆に対して主イエスは「ヨナのしるし」のほかにしるしは与えられない、と語る(29節)ヨナとは旧約聖書に登場するユニークな預言者である。彼は神からニネベに行くよう命じられるが、反抗して逃げ出し、乗った船が嵐に遭遇した挙句、潔く?海に投げ込まれる。大きな魚に飲み込まれたヨナは三日間魚の腹の中で悔い改めた結果ニネベで神の言葉を語る。ヨナにまさる天からのしるしを聖書は語る。人を悔い改めに導く天からのしるしを聖書は語る。それは教会が語らねばならない「天からのしるし」である。
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 2018年8月19日 
「求めなさい」加藤豊子牧師
ルカによる福音書11章5−13節



 主イエスが弟子たちに教えられた祈り、主の祈りは「父よ」という呼びかけで始まっています。私たちが呼びかける相手、それは、いるのかいないのかはっきりしないようなお方ではありません。確かに聞いていてくださるお方、「父よ」と呼ぶことのできるお方に向けて、わたしたちは祈ることができます。わたしたちの祈りの言葉が、空しく宙に消えてしまうようなことはありません。



 真夜中に、訪ねてきた旅行中の友のために、「パンを三つ貸してください」と頼んだ人のたとえ話が語られています。最初は、「迷惑をかけないでください」と断られたとしても、しつように頼めば、起きて必要なものは何でも与えるであろう、とあります。祈りに於いて熱心にあきらめずに祈ることの大切さが示されています。



 しかしそれ以上に強調されているのは、父なる神は求める者に良い物を与えてくださるお方である、ということだと思います。どのような父親であっても我が子には良い物を与えようとする、それならば尚のこと、父なる神はわたしたちに良い物を与えてくださるに違いないではないかと言うのです。



 「求めなさい、そうすれば与えられる。」と約束されています。信頼して、安心して神に祈り求めるようにとの招きの言葉です。多くの祈りの課題があります。その一つ一つを言葉に表して、神に求めるものでありたいと思います。
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 2018年8月12日 
「祈るときには」加藤豊子牧師
ルカによる福音書11章1−4節



 福音書には、イエス・キリストの生涯が記されています。主イエスがなされた不思議なわざ、話された教えの数々、それらに先ずわたしたちの目はひきつけられます。しかし、よく読んでいくと、主イエスの行動のすべてを支えているものが「祈り」であるということに気づかされます。「祈るために山に行き」「ひとりで祈っておられると」という主イエスの祈りの姿を、一番間近で見ていたのは弟子たちだったろうと思います。ユダヤの家庭では、幼い頃から律法について学び、祈りを教えらています。唱える祈りの言葉があり、祈りの習慣があったでしょう。弟子たちは、主イエスの祈りの姿の中に、自分たちの祈りとは違う何かを感じていたのだと思います。



 「祈りを教えてください」という弟子たちの願いに応えて主イエスが教えてくださったのが、「主の祈り」と呼ばれる祈りです。この祈りは「父よ」という大変親しい呼びかけから始まっています。そこには父なる神との親密な関係があります。祈りとは、一方的にこちらの願いを並べたてることではなく、父よと呼びかけることのできる真の神との交わりです。



 「御名が崇められますように。」と、神の栄光を求める祈りをもって始められています。現代は、神の御名が崇められているとはとても言えないような状況です。神を忘れたような時代の中にあって私たちは神を神として崇め、神のみこころを求めて生きるようにと招かれていることを覚えたいと思います。
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 2018年8月5日 
「マルタとマリア」加藤誠牧師
ルカによる福音書10章38−42節



 マルタとマリアの話は教会の中では比較的良く知られた話である。ルカは彼らの氏素性を全く私たちに知らせない。しかし想像できることは勿論ある。9章51節からルカ福音書は、いわば第2ステージに入る。主イエス一行のエルサレムに向けての旅が始まる。旅を始めるにあたって主イエスは72人を任命し、行く予定の町や村に派遣し伝道させる。この流れで読むならば、マルタとマリアは派遣された弟子たちを受け入れ、主を信じる者になり、一行をもてなす決意をしたと考えるのが自然であろう。



 人を家に泊めるのは大変である。しかも集団となれば食事や風呂、布団の手配と気の休まる暇もない。しかもただの客ではなく、彼らが恐らくは最近になって信仰の対象としたお方である。どれだけの人手が彼らの家にいたのかは分からないが、マルタの不満は理解できる。同時に直に話を聞く千載一遇のチャンスを逃すまいとしたマリアに気持ちも理解できる。



 「マリアは良い方を選んだ」という主イエスの言葉は決してマルタの不満を下に見ての言葉ではない。主イエスに聴くことを忘れて奉仕にのみ忙しくすれば不平、不満は出る。一方、聴くだけで他者に対する奉仕がなければ教会としてどこかオカシイ。ただ状況が状況であろう。主イエスにしてみれば、エルサレムで待ち受けている十字架に向かって歩みを進めている。寝食を忘れるほどマリアは主イエスの話に聞き入っていたのではないだろうか?更にマルタは多くの思い悩みに心を乱していた、と言われている。これは私たちにも共通する。主の言葉をしっかり聞くことにより、現実には多くの悩みがあるとしても、私たちは主を信じて歩めるのである。
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