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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2018年10月28日 
「狭い戸口から」加藤豊子牧師
ルカによる福音書13章22−30節



 主イエスはエルサレムに向かって進んでおられた。するとある人が、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねた。主イエスはその質問に対し、少ないとも多いとも言われなかった。主イエスがこの質問者に言われたかったことは、あなた自身が狭い戸口から入るように努めてほしい、ということであった。



 それでは狭い戸口とは何だろうか。結論から言うならば、主イエスがお持ちになっておられた広い心を持とうとすること、それこそが狭い戸口が意味することである。



 初代教会が直面していた問題、それはエルサレムに古くから住んでいたユダヤ人と外国から来たギリシャ語を話す人たちとの間に起きた問題である。共に主イエスを信じる者達であったが、古くからいるユダヤ人が幅を利かせていたために両者の間には格差や不公平が生じていた。またその時代、ユダヤ人以外に伝道しようとするパウロに対しては、妨害が起きた。



 そのような特権意識を持つユダヤ人たちは、自分たちこそが狭い戸口から神の国に入ることができると思っていた。しかし、東から西から沢山の人がやってきて宴会の席に着くとあるように、主イエスの心は世界中の人々を神の国招きたいと思う広い心である。そこに求められているのは、自分と異なる人々を受け入れる心である。



 私たちの心も、放っておくと狭くなりやすいのではないだろうか。主イエスのような広い心をも持つように努めなさい、と私たちも招かれている。
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 2018年10月21日 
「喜びに溢れ」加藤豊子牧師
ルカによる福音書13章10−21節



 安息日に主イエスは会堂で、一人の女性の病を癒してくださいました。18年もの間腰を曲げることができないという症状でした。彼女の抱えていた悩み、苦しみは身体的な問題だけではありません。「病の霊に取りつかれている」という言葉が示すように、当時の社会ではその重い病は悪霊の仕業と考えられていました。それはまた、神の祝福を受けられない存在とみなされ、共同体の中での孤立という状況も生み出していたのではないかと想像されます。



 主イエスは「婦人よ、病気は治った」(12節)と言われました。「治った」という言葉の元々の意味は「解放されている」というものです。病だけではなく彼女を縛り付けている様々な束縛からの解放を意味しています。この女性は神を賛美しました。しかしその様子を見ていた会堂長は、「安息日はいけない」と安息日に病人をいやした主イエスを批判しました。



 安息日に喜びと讃美に溢れたこの女性と、律法にとらわれている会堂長の姿は、大変対照的です。律法主義に囚われて神の思いが見えなくなっている会堂長もまた、主イエスによって束縛から解き放たれることを必要としている人であったことを思わされます。



 続いてからし種とパン種のたとえが語られました。小さなものが大きく成長する、小さな存在が全体に大きな影響を及ぼすという、神の国の豊かさを表しています。教会もまた、そのような神が与えてくださる豊かさを示す存在であることが求められているのではないでしょうか。
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 2018年10月14日 
「迷い出る雛にも」加藤誠牧師
ヨブ記38章39−41節



 烏は聖書に時々登場します。ノアの箱舟から最初に放たれたのは烏でした。賢さが見込まれたのでしょうか。人目を避けるエリヤの命を繋いだのが、神に命じられて烏が運ぶ食べ物でした。ヨブ記38章からはいよいよ?神からヨブへの直接の「やりとり」が記されています。それは現代の科学をもってしても答えられないものばかり!しかも「光のすみか」とか「すばるの鎖」とかスケールも巨大です。



 39節からは動物が登場しますので少しは身近になるのですが、いったい誰が迷い出る烏の雛を救うために餌を置いてやるのか?と問われてもヨブには返答のしようがありません。それは神様の一方的な救い、恵みの事実を突きつけられているようにも見えます。



 つまるところ聖書は主イエス・キリストによる「救い」を私たちに一方的に提示します。この場合の「一方的」とはヨブが神が「オリオンの綱をゆるめる」事を知ることもなければ、たとえ知っていたとしても全く関わることが出来ない、という意味での一方的です。しかし神は神の事実をヨブに一方的に語ります。主イエスの十字架の出来事について、私たちは何もすることが出来ません。時間的な事ではありません。私たちの善なる何かで十字架を無には出来ないのです。烏の雛が無条件で神の保護を得たように、主の十字架の救いは無条件で私たちに与えられます。その感謝をいつも持っていたいものです。
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 2018年10月7日 
「悔い改めなければ」加藤誠牧師
ルカによる福音書13章1−9節



 「悔い改めなければ滅びる」と聖書は告げる。この衝撃的な話を主イエスがなされる直前には、裁判の話がある。その前には「予想しない日」に帰って来る主人の話である。神の裁きが語られていた時にローマ総督のピラトがガリラヤ人を殺害したニュースが飛び込んできた。犯罪や災害で思いがけず人の命が断たれることがある。それを話題にしつつ主イエスは他人事ではなく、あなたの命を神の前に心配すべきだと語る。それが「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる。」との言葉で言い表されている。大変に怖い言葉である。



 悔い改めは反省ではない。人は思いがけない不幸や災難に遭遇すると、過去に原因を探ることがある。過去を冷静に振り返り反省すべき点を反省することは勿論大事である。それがより良い未来に繋がることは多々あると思う。しかし聖書が語る「悔い改め」とは違う。



 6節からは実のならない「いちじくの木」と「ある人」と「園丁」の話である。このいちじくは主人に期待されている実を結ぶことが出来ない。主人は園丁に切り倒すように命じる。しかし園丁は世話をし来年に期待すると主人に告げる。何故主イエスは「悔い改めなければ滅びる」と語った直後にこの話をされたのだろうか?ここに聖書の語る「悔い改め」が示されているからではないだろうか?主イエスは私たちの未来に期待しておられる。その主イエスを信じて歩むことこそ「悔い改め」に他ならない。
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