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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2018年12月30日 
「シメオンのうた」加藤豊子牧師
ルカによる福音書2章22−35節



 マリアとヨセフは生まれたばかりの幼子イエスを連れてエルサレムへ行きました。初めて生まれた男の子の赤ちゃんは、生後1ヶ月位になると律法に従って神に献げることになっていたからです。



 エルサレム神殿で、預言者シメオンに出会ったことが記されています。シメオンは、「正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。」とあります。旧約で預言されてきたメシア、救い主の到来をイスラエルの人々は長い間待ち望んできました。シメオンもその一人です。しかし、シメオンには「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない。」という特別な約束が与えられていました。

 この時シメオンが何歳だったのか、わかりません。しかし、この後出てくる預言者アンナが84才だったことを思うと、シメオンもかなり高齢だったのではないでしょうか。



 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。」(29節)

 シメオンの目の前にいるのは、生後1ヶ月の幼子です。この幼子がこの先どのような道を歩まれるのか、救いの業を成し遂げてくださるその過程を見ることはできないわけです。しかし彼は「わたしはこの目であなたの救いを見た」と言い切ります。神の約束の言葉の成就を信じたシメオンは、安らかに去ることができると信仰を言い表します。シメオンの歌は、教会の歴史の中では長い間、一日の終わりの祈りとしてうたわれてきました。

 わたしたちもこの歌をうたうことができることを感謝したいと思います。
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 2018年12月23日 
「星に導かれて」加藤誠牧師
マタイによる福音書2章1−12節



 マタイはクリスマスの大切な出来事として東方から占星術の学者たちが訪れたことを伝える。彼らの目的は「拝む」ことにあった。12節の間にマタイは「拝む」という言葉を三度使っている。しかし学者たちの「拝む」(2回)とヘロデ王の「拝む」とでは目的が天と地ほどに違う。



 主イエスは礼拝されるべき方としてお生まれになった、というのがこの2章のマタイのメッセージである。占星術の学者たちの素性は一切分からない。最も遺骨はケルンの教会で黄金の棺に納められているが。彼らは相当な犠牲を払って旅をしたことは想像に難くない。しかも目的は学問的探究ではなく「拝む」ことにあった。拝むべきお方に出会い拝む、それが彼らの旅というより人生の後半の目的ではなかったのではないだろうか?それはまた私たちの旅の目的にも十分なり得るのである。



 ヘロデは星に導かれない。ヘロデだけでなくエルサレムの学者も住人も星に導かれない。ヘロデは口では「拝む」と言いつつ内心では見つけ次第殺害しようと思っていたことが明かされる。エルサレムの人たちが学者たちの訪問によって抱いたのは喜びではなく「不安」であった。神から遣わされたメシアに「不安」が邪魔をして会いに行けない人たちがいたことを聖書は伝える。



 「不安」を抱えて私たちは生きている。占星術の学者たちであっても「不安」と無縁ではなかったであろう。しかしその「不安」を超える喜びを主イエスとの出会いは与える。学者たちが新しい道を通って自分たちの国に帰ることができたように。
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 2018年12月16日 
「神、我らと共に」加藤豊子牧師
マタイによる福音書1章18−25節



 マタイによる福音書はどちらかと言えばヨセフの目線で主イエスの誕生の出来事を私たちに伝える。聖書によるヨセフの人物評は「正しい人」である。ヨセフにしてみればマリアの妊娠は信じ難く、到底受け入れられない現実であった。律法に訴えればマリアを死刑にする可能性もあったため、彼は密かに離縁する決心をする。



 私は「正しさ」に悩むことがある。何を行うのが神の前に正しい事なのか迷わされる現実がある。そしてどことなく「自分らしさ」と「正しさ」は連動しているように感じる。ヨセフはヨセフらしく「正しく」あろうとして悩み、そしてマリアとその胎の子どもの命を守るために密かに離縁しようとしたのであろう。そのように悩むヨセフを聖書は「正しい人」と呼ぶのではないだろうか?



 ヨセフは夢を見る。主の天使が伝えたことを実行することは、ヨセフの選択にはなかったことであったろう。「神は我々と共におられる」という天使の約束を信じなければ、マリアを妻に迎え、やがて生まれるであろう「我が子」にイエス名付けるなどということは、とてもではないが実行できないことであったろう。



 ヨセフが知った「神は我々と共におられる」という御言葉の約束は、ヨセフがとことん悩んだ末に与えられた約束であった。それは同時にヨセフが本当にヨセフらしい決断をなすべく導き励ました御言葉ではなかったかと思わされる。私たちもまた「神は我々と共におられる」と讃美したいものである。
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 2018年12月9日 
「闇の中に輝く光」加藤豊子牧師
イザヤ書9章1−6節



 「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。」(イザヤ9:1)

 イザヤが預言したのは、主イエス・キリストの誕生の700年も前のことでした。イスラエルの国は南北に分かれ、偶像礼拝を繰り返し神に背を向けて歩む王と民の姿が旧約聖書に記されています。アッシリアという大国が現れ北イスラエル王国は危機的な状況に陥りますが、神を求めることを忘れた民は、自分たちの国が滅びるという悲劇に直面します。



 「地を見渡せば、見よ、苦難と闇、暗黒と苦悩、暗闇と追放。」(8:22)

 それは、当時のイスラエルの民の姿ですが、今私たちが生きているこの世界も、地を見渡せば争いが絶えず、戦争や紛争によって飢えてさまよう人々があふれ、格差が広がり貧しい者、弱い者が虐げられられている苦悩と不安という闇を抱えた世界と言えるのではないでしょうか。暗闇は自分の外にあるだけではありません。憎しみや妬み…様々な闇ともいえるものを私たちは自分の内側にも抱えています。



 イザヤは暗闇の中で、希望の言葉を語りました。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」と闇を照らす大いなる光として、救い主が与えられることが示されています。その名は驚くべき指導者(カウンセラー)であると語られています。主イエスは私たちの人生のあらゆる場面に寄り添い、励まし支えてくださるお方です。そしてご自分の命を犠牲にして私たちを罪と死という、人間の力ではどうすることもできない闇の支配から救い出してくださった、唯一の真の救い主であります。
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 2018年12月2日 
「もう一人の放蕩息子」加藤誠牧師
ルカによる福音書16章1−14節



 「不正な管理人」のたとえと題された「たとえ」ほど不遇をかこうたとえはないように思う。まずしっかりと認識すべきは、この「たとえ」は15章1節からの3つのたとえの結論部分であるという事である。つまり主題は「悔い改める一人の罪人」につての「天の喜び」である。



 主イエスの周辺にいた人たちを3つのグループに分けることが出来る。「徴税人」「罪人」と呼ばれる人たちと「ファリサイ派」「律法学者」そして「弟子たち」である。16章のこのたとえは最後に「弟子たち」に語られた。素直に読めば、弟子たちの1人が「不正な管理人」と読めてしまう。そしてヨハネによる福音書ではこの不正な管理人が誰であるか記されている。すると一つの仮説が浮かんで来る。つまり主イエスは弟子たちの中にいる「不正な管理人」にだけ通じる話をされたのではないだろうか?という事である。



 何のためにこのたとえが語られたのを理解していないと道に迷ってしまうのがこの記事である。それは主イエスが「悔い改める一人の罪人」を得んがために聞く者を迷わせるように語られたからであり、その結果は14節にある主イエスへの「あざ笑い」である。この「あざ笑い」は主イエスの十字架に付いて回る。これを記したルカも当然、誰が不正な管理人かを知っていたはずである。だとすればルカも同罪である。一人を得るために残りを煙に巻いたのである。



 しかしこのたとえだからこそ聞かねばならない主イエスの言葉がある。それは「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」である。これこそが読者に知らされぬ「もう一人の放蕩息子」、そして私たちへの主イエスの語りかけである。
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