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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2019年2月24日 
「何をしてほしいのか」加藤豊子牧師
ルカによる福音書18章35−43節



 エリコの町の入り口に、ある盲人が道端に座って物乞いをしていました。当時、目が見えないということは、一生物乞いをして生きていくしがない、という状況だったろうと思います。彼は耳で群衆が近づいてくるのがわかりました。主イエスについての様々な噂も耳にしていたと思います。



 彼は、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けました。「ダビデの子」とは、約束された救い主、メシアを示す言葉です。主イエスの邪魔になるからと、人々はこの人を叱りつけ、黙らせようとしましたが、彼はひるむことなく、救いを求めて叫び続けました。 主イエスは彼に、「何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。敢えて聞かなくてもわかることなのに、とも思いますが、主イエスはこの人が自分の求めを口に出して言うことを求められました。私たちの祈りにおいても、諦めずに求め続けること、具体的に願いを言い表すことの大切さを思わされます。



 「あなたの信仰があなたを救った」いつも不思議に思う主イエスの言葉です。この人にどれだけの信仰があったと言えるのだろうかと思います。「ダビデの子」と救い主を呼び求めることができました。しかし弟子たち同様救い主がどのようなお方なのかを正しく理解していたわけではありません。ただひたすら、このお方ならきっと救ってくださると、すがるような思いで主イエスに救いを求め、主はそれに応えてくださったのです。



 目が見えるようになったこの人は「神をほめたたえながら、イエスに従った」とあります。従うということは、自分の人生をゆだねて生きることができるということでもあります。私たちの歩みにおいても、どう対処したらよいのかわからないと思わされることが起こってきます。そのような中でも「主よ」と呼びかけることができ「憐れんでください」と叫ぶことができる、具体的に「こうしてほしいのです」と願い求めることができる。これは、幸いなことなのだと思わされます。
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 2019年2月10日 
「欠けているもの」加藤豊子牧師
ルカによる福音書18章18−30節



 ある金持ちの議員が主イエスに尋ねて言いました。「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」この人は、大変幸せな、恵まれた環境にある人物と思われます。お金に困らない状況で、社会的地位も高い。人が羨むようなこの人にも深刻な悩み、不安がありました。自分はこのままで神の国に入れるのだろうかと不安に思っていたわけです。



 主イエスは「姦淫するな、殺すな…」という戒めを示されました。すると彼は、「そういうことはみな、子どものときから守ってきました。」と答えました。彼は傲慢な思いで言ったのではなく、ある意味真面目に生きてきた人なのだと思います。自分は良い物を手に入れてきた。真面目に生き努力もしてきた。この上さらに、何をしたらいいのでしょう、そう彼は尋ねています。言い換えれば、彼は何かをしたら手に入れることができる、と考えていたとも言えます。



 そんな彼に主イエスは「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば天に富を積むことになる。」と答えられました。この人は非常に悲しみました。大変な金持だったからです。主イエスはこの金持に、全財産を売り払うことを求められたのでしょうか。そうではなく、できないことが分かっていて敢えてそのことを求められたのではないでしょうか。自分の力で何でも手に入れてきたこの人に、できないことがある、永遠の命、神の国は、人間の努力で手に入れるものではないということを教えたかったのではないでしょうか。「欠けているものがまだ一つある」と言われましたが、何か一つ足りないと言うことではなく、根本的なところが間違っている、と言われたのではないでしょうか。



 従う、とは自分の手から離す、手離すという意味です。持っていることが問題なのではなく、自分の物として握っている、手離せないことに問題があるのです。神に委ねて生きることは難しく思えるかもしれませんが、その先にこそ真の命と平安が約束されているのではないでしょうか。
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 2019年2月3日 
「神の国は誰のもの」加藤誠牧師
ルカによる福音書18章9−17節



 主イエスに触れていただくために人々は乳飲み子まで連れてきました。乳飲み子まで、ですから0歳から10歳?くらいまでの子どもが主イエスの祝福にあずかりました。「子供のように神の国を受け入れる人でなければ・・・」と主イエスの言葉が続きます。



 昔2年ほど保育園の園長をしたことがあります。勿論保育の点では保育士さんにはかないません。4月の最初は保護者と朝別れるのが辛くて泣き叫ぶ新入園児の声が聞こえてきます。安心すると子どもたちは、小さければ小さいほど無条件の信頼を寄せてきます。遊ぶときは全力でぶつかってきます。子どもの目には、真正面にいる保育士や園長しか見えません。主イエスはそのような子どもでなければ、と言われたのではないかと思います。



 前の段落にはファリサイ派の人と徴税人が登場します。どちらが神に義とされたのか、というお話です。神殿での祈りが問題とされています。ファリサイ派の人は「心の中で」祈りました。ところがこの「心の中で」という言葉は「自分に向かって」という意味なのだそうです。「神様」と呼びかけてはいますが内容は自画自賛。確かにこのような人が教会にいれば、周囲からは立派な信仰者と思われるに違いありません。しかし結局見ているのは自分です。一方の徴税人は自分と人を比べたりはしません。ひたすら神の前に自分を懺悔し神の憐れみを求めます。



 信仰とは人と比べるものではないと思いますし、偏差値のように人との差を測るものでもありません。子供のように主イエスにまっすぐにぶつかっていきたく願います。
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