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シロアム教会 礼拝説教要旨集
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 2019年3月24日 
「祈りの家」加藤豊子牧師
ルカによる福音書19章45-48節



 今日の聖書箇所は「宮清め」とも呼ばれ、4福音書すべてに載っています。ここに記されている主イエスの振る舞いは、非常に激しいものです。マタイやマルコの記述を読むと、「両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。」とあります。



 神殿で捧げるお金は両替する必要があり、両替商たちは神殿境内、異邦人の庭と呼ばれるところで商売をしていました。また捧げられる犠牲の動物も、傷やシミのないものという規定があり、神殿内で売られているものを買わなければなりませんでした。その値段は、外で売られているものの何倍も高かったと言います。商人たちは儲け、その利益の一部を祭司たちに回すという、許されない不正も行われていました。祈りの家である神殿が、そのような行いで汚されていること、また異邦人の大切な礼拝場所である異邦人の庭で行われていたことに、主イエスは激しい怒りを表されたのです。



 「しかし、神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を 神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)

 神様がわたしたちに求めておられる捧げものは、目に見える形ある物ではなく、何よりもわたしたちの打ち砕かれ悔いる心であると詩編の作者は記しています。祭司長たちは、自分たちを否定し立場を危うくする主イエスを殺そうと諮りましたがどうすることもできませんでした。その理由は、民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからだと記されています。わたしたちの礼拝に於いて大切なことも、砕かれた心をもって神の御前に進み出て、神の言葉に耳を傾けることではないでしょうか。
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 2019年3月17日 
「主イエスと子ろば」加藤誠牧師
ルカによる福音書19章28-44節



 エリコを発った主イエス一行は一路エルサレムを目指す。エルサレムの標高は754メートル。彼らはオリーブ山を越えてゆく必要があった。オリーブ山の標高は817メートル。つまりオリーブ山とは新宿区唯一にして最大の山である箱根山(標高44.6メートル)より少し高い丘である。



 このオリーブ山を越えるために主イエスは子ろばを必要とされた。子ろばの所有者と主イエスとの関係は省かれている。「主がお入り用なのです」とは印象に残るフレーズである。ここで使われている「主」はκύριος というギリシャ語が用いられている。そして33節で「持ち主たち」と訳されている言葉はκύριοι(キュリオイ)である。つまりκύριος の複数形である。ここで考えさせられるのは、κύριοιたちにκύριος という言葉がどのように響いたかである。地上の子ろばの持ち主は、確かにκύριοιであるが、真実の所有者が子ろばを今必要としていると受け止めたのではないだろうか?この地上の所有者たちは、何のために自分たちの子ろばが用いられるかを知らない。ただ「主がお入り用なのです」という言葉を信じ、所有物である子ろばを手放す。これもまた弟子のあるべき姿であろう。主イエスに用いていただくことが私たちの喜びとなっているだろうか?



 子ろばに乗る主イエスの姿は、群衆にとって強烈なアピールとなったはずである。なぜなら群衆は「馬」に乗る主イエスを期待したからである。「馬」はこの時は戦いを象徴する。ルカはマタイと違い、声高らかに神を賛美する弟子たちの姿を伝える。群衆の中からファリサイ派の人々が弟子たちを叱るように主イエスに頼むが、そのシーンはさらに賛美する弟子たちの姿を浮かび上がらせる。
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 2019年3月10日 
「預けられたもの」加藤豊子牧師
ルカによる福音書19章11-27節



 エルサレムに入られる直前、主イエスは「ムナ」のたとえと呼ばれるお話をされました。ムナとはお金の単位です。1ムナは100デナリオン、すなわちおよそ100日分の賃金にあたります。



 ある立派な家柄の人が王位を受けるために遠い国へ旅立つことになりました。そこで10人の僕を呼んで、一人1ムナづつ預け、帰ってくるまでこれで商売をするようにと言いました。帰って来ると、僕たちを呼んで預けた1ムナがどうなったか尋ねました。ある人は1ムナで10ムナもうけ、また一ムナで5ムナもうけました。しかし1ムナをそのまま布に包んでしまっておいた僕に対しては、大変厳しいことが言われています。



 このお話によく似ているのは、マタイによる福音書25章に出てくるタラントのお話です。同じように主人からお金を預かりますが、ある人には5タラント、ある人には2タラントとあるように、それぞれ違うものを預かります。このタラントは、神様からわたしたち一人一人が異なる賜物を与えられていることを意味していると思われます。それでは、皆同じように預けられている1ムナとは何を指しているのでしょうか。聖書の言葉、福音、または信仰ととらえることもできると思います。エルサレム入場を前にして、人々は神の国がすぐにも現れるものと思っていました。主イエスが新しい王となり、ローマの支配を打ち破って自分たちを解放してくれるに違いないと期待されていたと思います。しかし主イエスはそのような王として来られたのではなく、苦難の僕として歩まれ十字架に架かり、救いの道を開いてくださいました。



 主を待ち望むわたしたち一人一人に、1ムナが預けられています。失敗を恐れずに1ムナを用いて仕えることが期待されていることを、覚えたいと思います。
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 2019年3月3日 
「主イエスの招き」加藤誠牧師
ルカによる福音書19章1-10節



 「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのである。」(10節)エリコは地図で見るとエルサレムの北北東20キロ離れた所に位置する。エルサレムは主イエスの地上の旅の終着点である。そう考えると10節の主の言葉はザアカイに向けられただけでなく、主イエスに出会っていない全ての人に向けた言葉であると理解しても差し支えないであろう。



 ザアカイは主イエスの目には「失われた者」であった。エリコに住むユダヤ人も同じように考えていたであろう。何故なら彼は徴税人の頭であったからである。ローマ人は土木工事の天才との説がある。当然道を馬車や軍隊が通れるよう整備するには莫大なお金が必要になる。そして当然考えられるのは、ローマに支配された国民の負担になるということである。



 徴税人とはローマ帝国のために税を取り立てるユダヤ人であった。例によって聖書は何故ザアカイが徴税人にしかもその頭になったのかを語らない。彼の家族構成も語らない。当時の税金納入のシステムを考えると徴税人の頭であれば金持ちであっても不思議ではないであろう。



 エリコのユダヤ人から「罪深い男」と評されるザアカイに、主イエスは「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」と声をかける。「失われた者を捜しだして救う」のが主イエスの使命、神から与えられた使命だからである。ザアカイは喜んで主イエスを家に迎える。素直にこの流れを読むと、ザアカイの、財産の半分を貧しい人々に施す決心は、恐らく一瞬のうちに決断されたものであろう。「失われた者が捜しだされる」喜びがここでは率直に伝えられる。そしてこの喜びこそが教会が、私たちが求めてゆくべきものである。
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